月刊「聖母の騎士」 7.平成徒然草 21   ホームへ   表紙へ

石橋 理

読書と旅と想い出と(1)

 レイモント『農民』
 
 「キリスト様御報謝(ごほうしゃ)」。この言葉がポーランドとの最初の出会いだった。中一の時、やはり父の書棚にあったレイモントの『農民』第一巻を引っ張り出して開いた時、まず目に飛び込んで来たのが冒頭のこの言葉なのだ。
 ポーランドの、とある農村。ちょっと頭のおかしな女乞食が、ある農家の庭先に立ち、声を張り上げて施しを乞うのだ。ポーランドの農民の四季を春夏秋冬の四部作で構成した緻密で重厚な作品である。レイモントはこの作品でノーベル賞を取った。
 読み始めたはいいが、中一の私には到底歯が立つような作品ではなく、第一巻の途中で投げ出してしまった。しかし冒頭の部分は強烈な印象で残っている。その後、読み通したいと思ったが、父の書棚は原爆で焼失したし、古本屋でも未だにお目にかかれないでいる。
 「キリスト様御報謝」。これは多分ヨーロッパ・キリスト教社会での「キリストに賛美」という挨拶を、訳者が文楽にある「巡礼にご報謝」をそのまま取り込んで訳したのだと思う。後に聖母の騎士修道院のポーランド人修道士さん達が、朝夕、「マリア!」という挨拶を交わすのを知って、同じ挨拶のヴァリエーションだなと思った。
 
 ポーランドの作家で、レイモントよりも世界的に有名なのは『クォ・ヴァディス』のシェンキヴィッチだろう。使徒ペトロは皇帝ネロの迫害を恐れてローマから逃げ出そうとする。市の門を潜りぬけようとする時、彼は師キリストにぱったりと出会うのだ。ペトロは驚いて「クォ・ヴァディス・ドミネ−−主よいずこえ行き給う」と訊ねる。キリストは「お前が逃げ出そうとするから、代わりに私がもう一度、十字架にかかりに行くのだ」と答えられる。ペトロは己が使命を悟り、引き返して殉教する。この小説そのものは、ヴィニキウスという正義感溢れるローマの青年貴族とキリスト教との出会いを軸とした歴史大河ドラマだが、物語の全てが、先程の「クォ・ヴァディス」の場面へと収斂(しゅうれん)されて行く。シェンキヴィッチはこの小説で、迫害に耐えたローマのキリスト教社会を画き乍ら、近隣諸国の侵略や抑圧に立ち向かうポーランド魂を謳(うた)い上げたのだ。そしてその根っこに、彼等の農民魂があるのは確かである。
 なんといっても、ポーランドは農業国である。とにかく山のない国だ。どこまでも、なだらかな起伏が続き、山といえばチェコとの国境沿いに少しあるだけだ。そして東にロシア、西にドイツと軍事大国に挟まれていて、絶えず侵略や分割の悲劇にさらされて来た。それだけに、彼等の愛国心、文化に対する誇りは強烈である。日本人の大和魂って一体何だったのと思わせるものがある。
 ポーランドは十八世紀にロシア、プロシア、オーストリア三国による分割を経て、二十世紀初頭にようやく独立を回復するがそれも束の間、ヒトラー・ナチスによる侵略を受け、やがてソ連の支配下に入る。ソ連はレジスタンスの〈ワルシャワ蜂起〉の死闘を傍観して助けようとせず、力尽き果てた頃を見計らってワルシャワに軍を進め、解放者の大義名分でポーランドを支配下に置いてしまった。
 然しポーランド魂は死せずだ。グダニスク造船所で始まったストライキはワレサ議長の指導の下〈連帯〉のうねりとなり、ポーランドの自由と民主化だけでなく、東欧諸国のソ連離れ、そして遂にはソ連邦そのものの解体をもかち取る。
 三十年前、私がポーランドを訪ねた時は、もちろんまだソ連の統制下だった。第二次大戦後ポーランドが先ずやってのけたのは、破壊しつくされた首都ワルシャワの完全復元だった。設計図はもとより、使われていた石材まで、どこの山のどんな種類と色の石かまで調査指定してやってのけたのだ。その辺に彼等の文化伝統への、しつこいまでのこだわりを感じる。その復元したワルシャワの真ん中に一つだけ、バカでかい異質の高層建築がそびえている。ソ連がその威信のPRセンターとして造らせた〈文化宮殿〉なるシロモノだ。これがワルシャワっ子にはすこぶる評判が悪い。「ワルシャワでいちばん眺めのいい所はどこだ。」「文化宮殿の屋上に決っとる。」「どうしてよ。」「文化宮殿を見なくて済むだろうが」−−。そんなジョークが流行っていた。
 映画の世界でも、ワイダ監督のポーランド・レアリズムの作品、〈世代〉〈地下水道〉〈灰とダイヤモンド〉など、表現を変えてはいるが、抑圧者への同じ抵抗とヒロイズムの主張なのだ。
 
 アメリカの作家だが、ジェイムス・A・ミッチェナーの小説『ポーランド』は、まさにポーランドの大地と歴史そのものが主人公となっている。ヴィスワ河畔、クラクフとワルシャワの中間にあるとされる、プコヴォという架空の寒村と、そこに生きる数世代の農民を中心としてポーランドの歴史が生々と語られる。十三世紀、ヒンギス・ハーンの率いるモンゴル、タタールの連合軍による侵略に始まって、サラセン、ロシア、ドイツと侵略は繰り返される。そのたびに村は焼き払われ、男たちは殺され、女たちは凌辱(りょうじょく)される。しかしプコヴォの村はしぶとく生き続ける。大地がある限り、村と農民たちは不死鳥のように甦るのである。
 
 私が訪ねたポーランドは初夏。まさに麦秋の頃だった。クラクフからワルシャワへ、ナチスがソ連進攻のために造ったとされるハイウェイを車で走ったが、行けども行けども、黄金の稔りの麦畑で、麦束を山のように積んだ馬車が、そのハイウェイをトコトコと走り、時折その麦束の上に腹這いになった可愛い少女が、にっこり笑って手を振ったりしていた。そうした麦畑の丘にアクセントをつけるよう黝々とした森が現れ、その中に木造りの山小舎風の聖堂がひっそりと佇(たたず)んでいたりする。
 
 ポーランドのほぼ中央に、チェンストホーヴァという市がある。そこのヤスナゴーラ大修道院の教会には〈黒のマドンナ〉という聖母の画像(いこん)が祭壇の上にかけられている。普段はカーテンで覆われているが、ミサの聖変化の鈴の音と共にカーテンが開く。頬(ほほ)に傷のある聖母で、侵略したサラセンの将軍が刀で切りつけたものだという。その直後サラセン軍は大敗を喫して追い払われたと伝えられる。
 ヤスナゴーラ大修道院には、レイモントが長く滞在して『農民』を書き上げたという一室が、そのまま残されている。その部屋でポーランドの若者達と白夜(びゃくや)を徹して語り合った。近くの森で梟(ふくろう)が鳴いていた。
 
 これを書いていると、つけっ放しのテレビが、シドニー・オリンピック、ボートの男子軽量級ダブル・スカル二〇〇〇でポーランドの優勝を報じ、表彰式でポーランド国歌〈ドンブロウスキー行進曲〉が流れた。私は嬉しくなって、憶えていたその国歌をいっしょに口ずさんでしまった。〈マルシュ、マルシュ、ドンブロウスキー。ゼミボスキド、ポルスキー。ザトイプシヴォーゼン、ゾンチェンシェーズナ、ローデン〉
(この項続く)

 

 

 

 

 

 

 

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チェンストホーヴァのイコン