月刊「聖母の騎士誌」 9.外国人居留地とキリスト教[2]   ホームへ   表紙へ

高木一雄

2 横浜居留地とカトリック教会

神奈川開港
 安政五年(一八五八)の五ヶ国条約によるとイギリス、ロシアは安政六年(一八五九)六月二日から開港とされ、アメリカ、オランダは六月五日からであり、フランスは七月十七日(八月十五日)からであった。
 だが神奈川湊(みなと)は西北に山があって風波の憂いがないとされたが遠浅(とおあさ)であり、たとえ隣接する子安海岸を含めて埋め立てても参府する諸大名の往来が激しく幕府としても東海道を渋谷、厚木、伊勢原、平塚と迂回させる計画であった。そのことは当初アメリカ側が品川の開港を強く望んだため神奈川の開港で押えようとしたからであった。

神奈川領事館の設置
 神奈川開港日の迫った五月頃、アメリカ合衆国領事ドールは青木町の本覚寺(ほんかくじ)に入り、イギリス国領事オールコックは青木町の浄滝寺(じょうりゅうじ)に入りオランダ国領事も本宿の成仏寺に入ってしまった。
 ところで九月十二日フランス国領事ルレイロは飯田町の慶運寺(横浜市神奈川区本町一八―二)を宿舎として元町の甚行寺(じんこうじ))(横浜市神奈川区青木町三―九)を領事館とした。そこで九月二十二日以来、江戸総領事館の通訳であるバルテルミ・ジラール神父が江戸正泉寺(しょうせんじ)と神奈川甚行寺の間を往復するようになった。

横浜居留地に変更
 安政六年(一八五九)正月二十二日、幕府は久良岐郡(くらきごおり)横浜村など六ヶ村を上知(あげち)した。その頃の横浜村は神奈川湊から一里あり旗本知行地であって八〇余戸の人家がある淋しい村であった。だが二月一日の神奈川宿本陣での会談ではアメリカ側が横浜村を第二の出島にするものだと主張して反対したが日本側は横浜村を条約文に定めた神奈川の一部だと主張していた。
 ところが六月二日横浜村に運上所(うんじょうしょ)や波止場が出来て開港されると多くの日本人商人も移り住み活況を呈してきたため実利を好む外国人たちは徐々に横浜村に移り住むようになってしまった。

横浜居留地八〇番
 「日仏修好通商条約」第四条によると「日本に在る仏蘭西人自国の宗旨を勝手に信仰致し其(その)居留(きょりゅう)の場所へ宮社(みややしろ)を建(たて)るも妨なし」とある。いわゆる居留フランス人は居留地においてキリスト教を勝手に信仰してもよいとあるが日本人に勧めてはいけない、ともない。そして教会堂の数についても制限はないが条約締結商議の際、清国と同様に差し当たって一ヶ所でよいとしていた。
 万延元年(一八六〇)七月、フランス国公使に昇格したデシエンヌ・ド・ベルクールは居留地に八ヶ所の用地を入手した。その中八〇番の地九〇〇坪を天主堂用地として貸与してくれた。そこで早速に司祭館の建設を始め十一月十八日ジラール神父は移っている。その頃十月にはピエール・ムニクウ神父が横浜に上陸して手伝うようになった。

横浜聖心教会
 文久元年(一八六一)十二月十三日献堂式を迎えた。そして文久三年(一八六三)八月二十九日鐘の祝別式が行われた。
 その頃、日本では永いことキリスト教は禁制であったが異国風の建物も珍しく毎日一〇〇〇人もの見物人が押しかけるようになってしまった。その上、ジラール神父やムニクウ神父の流暢な日本語による説明も人気を呼び中にはキリストや聖母マリアの御絵までも貰い大切に持ち帰る有様であったという。そして瓦版(かわらばん)などにより広く宣伝されたため天主堂の前には門前市が建ち並び旅籠屋では蒲団が足りなくなった程であったという。

横浜天主堂事件
 文久二年(一八六三)正月二十日、神奈川奉行阿部正外(まさひろ)は天主堂に捕吏(ほり)を遣わし見物していた五〇余人の中、三三人を捕まえ戸部村にある奉行所の牢に入れてしまった。
 ところが事件を目撃していたジラール神父は早速にフランス国公使ド・ベルクールへ知らせた。そこで公使は神奈川奉行に釈放を求めたところ直接幕府と交渉してもらいたいと言うことであった。そのため正月二十六日に幕府老中に掛け合ったところ二月五日老中は神奈川奉行に釈放を命じたため二月十四日までには全員が釈放されて事件は収まったわけであった。

横浜鎖港(さこう)問題
 幕府は攘夷断行日を朝延に公約したものの攘夷派による行動には目に余るものがあった。そこで窮余の策として文久三年(一八六三)五月九日老中は暫く横浜、長崎、箱館の三港を閉鎖して居留外国人の退去を要求するとした。そして九月十四日各国外交代表に提案したが断られてしまった。そのため十月一日には撤回して更(あらた)めて横浜一港のみを閉鎖して貿易は長崎と箱館で行うとして条約締盟各国へ使節を派遣することになった。
 文久三年(一八六三)十二月二十九日、幕府使節池田長発(ながおき)、河津祐邦(すけくに)など三〇名は神奈川沖よりフランス国軍艦ル・モンジュ年に乗りフランスへ向かった。そして現地で交渉に当たったが悉(ことごと)く失敗に終わってしまい使節一行は帰国してからも幽閉の身となってしまった。若し横浜鎖港が実現したら居留外国人は引き揚げてしまい天主堂も閉鎖された筈であった。

外国人遊歩規程と巡回布教
 「日仏修好通商条約」第三条によると横浜居留フランス人は青木町の神奈川方御役人会所から十里四方を自由に遊歩してもよいということであった。だが、その境界線は自然の地形による六郷川、酒匂川、高尾山などとしていた。それが明治八年(一八七五)九月十八日には神奈川県庁旗竿から十里範囲内とされ早川、宮城野、仙石原、ウトヲ峠、相模国境、枝川、戸倉、小和田、高月、日野、六郷川河口までと再確認されている。そのため明治五年(一八七二)八月十九日以来、多摩地方中野村など三一ヶ村が神奈川県所管となっている。
 明治六年(一八七三)二月二十四日、日本人にもキリスト教が解禁された。そこで居留地にいる宣教師たちは一斉に巡回布教を始めた。そして明治十年(一八七七)浅間下伝道所、明治十二年(一八七九)小田原伝道所、大島伝道所、砂川伝道所、明治十三年(一八八〇)川崎伝道所、明治十七年(一八八四)十日市場伝道所、八王子八日町伝道所、明治十九年(一八八六)厚木伝道所、明治二十年(一八八七)野毛町伝道所などが建てられていった。

外国人宣教師の定住
 安政五年(一八五八)の五ヶ国条約では外国人の宿泊を旅籠屋に限っていた。ところが明治八年(一八七五)十二月七日からは遊歩規程内において病気や日没の場合に限り一般民家にも泊まってよいことになった。そして明治十一年(一八七八)九月九日からは七日毎に届け出れば一般民家に泊まってもよいことになった。いわゆる外国人宣教師といえども各教会に定住できるようになったわけである。
 すなわち明治十一年(一八七八)十月二十五日元八王子教会、明治十五年(一八八二)十月十七日小田原教会、明治十六年(一八八三)十月二十八日横須賀教会、明治十七年(一八八四)二月三日芝生教会、明治十八年(一八八五)三月十二日砂川教会、明治二十六年(一八九三)若葉町教会などが献堂されている。

仏国人尼社中(あましゃちゅう)
 明治五年(一八七二)五月二十二日、サン・モール会修道女五人が横浜に上陸した。そして暫く天主堂に仮寓したが八月には山手居留地五八番の英国兵隊屯所跡一〇〇〇坪を入手して孤児救済事業を始めた。その頃は天主堂に入り込んでいた太政官探索方安藤劉太郎(りゅうたろう)、伊沢道一(いざわみちかず)などが尼社中(あましゃちゅう)の行動を逐一報告していた。
 明治六年(一八七三)四月には一〇〇〇坪増地し、明治十五年(一八八二)頃からは横須賀の近く中里村の周辺で授産所を開いている。そして明治二十四年(一八九一)からは若葉町一丁目二番地で小学校を開設している。

外国人墓地
 開港当初、居留外国人に死者が出ると元町の増徳院(横浜市中区元町一丁目一三―二〇)の墓地に埋葬していた。そこで文久元年(一八六一)五月には正式に外国人墓地に指定された。その後、元治元年(一八六四)十一月二十一日の「覚書」によって四区が増地され大境山(おおさかいやま)の一区が清国人の墓地となった。そして更に慶応二年(一八六六)十一月二十三日の「約書」によって三区が増地され合わせて七区五五四九坪が外国人墓地となった。
 明治十三年(一八八〇)九月十三日、久良岐郡根岸村中尾に外国人墓地が増設された。それも伝染病の流行により多くの死者が出たため従来の墓地が充塞(じゅうそく)となったためである。
 以上のようにして日本政府によって管理・維持されてきた外国人墓地も明治三十二年(一八九九)七月十七日の改正条約実施により明治三十三年(一九〇〇)四月十七日財団法人認可となり、その運営も居留外国人たちに委ねられたわけであった。


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横浜天主堂跡のキリスト像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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横浜山手外国人墓地