月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]   ホームへ   表紙へ  

高木一雄
(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓

 長崎二六聖人の処刑
 慶長元年(一五九六)八月二十七日、イスパニア船サン・フェリッペ号が土佐国浦戸浜に漂着した。そこにはフランシスコ会士二名、アウグスチノ会士四名、ドミニコ会士一名が乗っていた。
 そのことは九年前の天正十五年(一五八七)六月十九日豊臣秀吉が九州征伐の折イエズス会準管区長ガスパル・コエリヨ神父がフスタ船で筑前国博多を訪れた際、大砲の威力に驚いて宣教師の追放を命じたが、それに違反するものであった。そこで京・大坂のフランシスコ会士やキリシタンを捕まえたが彼等を長崎で処刑するよう強力に推し進めたのは五奉行の一人増田長盛であった。
 現在、彼の墓は埼玉県新座市野火止三丁目一・842D一の金鳳山(きんぽうざん)平林寺(へいりんじ)にある。JR池袋駅より東武東上線に乗り志木駅で下車、東武バス平林寺前で降りるとよい。

 イスパニア船の航路
 慶長元年(一五九六)六月十七日、サン・フェリッペ号は呂宋国のマニラを出帆して新イスパニア(メキシコ)へと向かった。その時代イスパニア船は一四九四年六月の「トルデシリヤス条約」によって大西洋を西航するわけであり三〇年前の永禄八年(一五六五)六月に太平洋の黒潮による横断航路を発見したばかりであった。だが偏西風を利用したため日本の台風シーズンと重なり暫々日本の沿岸に漂着していた。
 一方、漂着したサン・フェリッペ号は早速に土佐国領主である長宗我部 (ちょうそかべ)元親(もとちか)が豊臣秀吉の許へと知らせた。そこで九月二十二日奉行である増田長盛は土佐国へ来て積み荷を没収し、更に和泉国堺湊へと回航させてしまった。それらの背景には八月三十日京・大坂で大地震があったり、その上台風により二条城や伏見城が壊されてしまったからである。
 
 宣教師たちの処遇

 サン・フェリッペ号船長マティアス・デ・ランディアは積み荷を没収される時、恐怖の余りイスパニア国王の偉大なことと強力な軍隊を持っていることを吹聴してしまった。だが天正十六年(一五八八)六月十六日イスパニアの無敵艦隊六三隻はイギリス艦隊により滅ぼされてしまった。
 その頃、豊臣秀吉(五九歳)はポルトガル商人の多い長崎で宣教師五人から十人を見せしめのため処刑するよう命じていた。それに対して増田長盛(五二歳)と施薬院全崇(せやくいんぜんそう)(六七歳)はキリシタンが憎いとして強引に処刑を主張していたが、石田三成(三六歳)はルイス・フロイス神父と親交があり反対していた。そして前田利家(五二歳)は今回はマニラへ送り還した方が良いだろうとしていた。
 
 宣教師たちの処刑
 慶長元年(一五九六)十月十九日、京、大坂で活躍しているフランシスコ会士に対し捕縛命令がだされた。それは天正十九年(一五九一)九月十五日に豊臣秀吉が呂宋国総督に投降を呼びかけて以来、フランシスコ会士十人が京・大坂・長崎などにいたからである。そこで十二月十九日(一五九七年二月五日)宣教師六人とキリシタン二十人が長崎へ護送され西坂で処刑されたわけであった。
 一方、イエズス会士はポルトガルとの交易の仲介役として捕縛を免れていたがイエズス会士である第二代日本教区長ぺトロ・マルチネス司教は遠くから処刑の様子を見ていた。
 
 増田長盛の出自(しつじ)
 天文十四年(一五四五)尾張国中島郡増田(なかじまごおりました)村に生まれた。彼は成長すると豊臣秀吉に仕え三百石が給されたが、天正十二年(一五八四)三月の小牧・長久手の戦いの功績では近江国水口(みなぐち)二万石城主となった。そして文禄元年(一五九二)六月には二千人の兵を率いて朝鮮へ渡り文禄四年(一五九五)七月に大和国郡山二十万石城主となっている。
 その他、豊臣奉行には前田玄以(げんい)(丹波国亀山五万石)、石田三成(近江国佐和山二十万石)浅野長政(甲斐国府中二十二万石)、長束(ながつか)正家(近江国水口五万石)の四人がいた。
 
 武蔵国岩槻への配流
 慶長五年(一六〇〇)九月十五日の関ヶ原の陣で彼は石田三成に組して敗れてしまった。そこで九月二十五日高野山に入り僧侶となったが九月二十七日に大坂城西の丸で行われた戦後処理では同席した岩槻城主高力忠房に預けられることになってしまった。それも前年に徳川家康に対して石田三成への殺意を密告していたため死一等だけは免れたわけであった。
 岩槻城主高力忠房と言えば僅か一七歳であったが徳川家三河三奉行の一人高力清長の孫でもあり、父高力正長は已に病死していた。
 
 増田父子の裏切り
 慶長十九年(一六一四)八月徳川家康は岩槻に幽閉中の増田長盛を呼び出し大坂方への和睦の仲介を依頼した。だが断られてしまった。
 その頃、息子増田兵大夫盛次は関ヶ原の陣以降赦されて尾張国名古屋藩主徳川義直に仕官していたが、元和元年(一六一五)四月の大坂夏の陣では豊臣方に寝返り五月六日討死してしまった。
 
 増田長盛の自刀(じにん)
 元和元年(一六一五)五月二十七日、岩槻城下に蟄居中の増田長盛は息子盛次の科により切腹を申し付けられ自害した。七一歳であった。そして遺骸は武蔵国騎西郡金重村の金鳳山平林寺に葬られた。
 寛文三年(一六六三)川越城主松平輝綱は父松平信綱の菩提寺である平林寺を新座郡野火止に移した。だが増田長盛の墓は明治年間子孫によって移されている。それは曽て二十万石大名とは思えない哀れな墓石である。
 


(2) 老中土井利勝の墓

 キリシタンの処刑
 彼は慶長十五年(一六一〇)以来、老中職として幕府の中枢にいた。いわゆる老中筆頭として第二代将軍徳川秀忠の時代、千住口鳥越村や聖天町での処刑や第三代将軍徳川家光時代の芝口札ノ辻での大量処刑の責任者でもあったわけである。
 一説によると徳川家康のご落胤ともいわれ土井利昌の養子になったとも言う。そして寛永二十一年(一六四四)七月十三日七二歳で亡くなり神田の田島山誓願寺(現東京都荒川区南千住六丁目六九・842D二二)に葬られた。だが昭和二年(一九二七)九月古河の正定寺(茨城県古河市大手町七・842D一)に移葬されている。
 
 キリシタンの捕縛
 慶長十八年(一六一三)六月四日、江戸市中でもキリシタン狩りが始まった。それは前年の三月十一日徳川家康が駿府で「南蛮記利支旦之法天下可停止之旨」を言明したことにより江戸でも三千五百人が登録されていたからである。
 また、元和三年(一六一七)下総国佐倉城主時代、安芸国広島城主福島正則の家臣ペトロ佃又右衛門を預かっている。彼はキリシタン大名大友義統(よしのぶ)や蒲生氏郷にも仕えていた熱心なキリシタンであったが、元和元年(一六一五)五月の大坂落城の時はジョアン・バプチスタ・ポルロ神父を救い出したり、その後アントニオ石田神父を匿うなどして捕まってしまった。そして元和四年(一六一八)四月芝愛宕下の土井家下屋敷で処刑されてしまった。
 
 斬首から火焙りへ
 元和九年(一六二三)六月、第三代将軍徳川家光が就任すると老中たちはキリシタンの処刑を人々に見せしめのため火焙りとした。そこは東海道芝口の小高い丘であり西国諸大名の江戸参府の道筋でもあった。何れも学僧南光坊天海和尚の助言によるものであった。
 彼が老中に在任した約二八年間、江戸周辺では三百人近くのキリシタンたちが斬首、火焙り、水責めなどの刑により処刑されていった。
 
 老中たちの横顔
 そもそも老中とは合議制であり定員四、五人の月番制であった。そして先祖代々徳川家に忠勤を励んだ十万石内外の譜代大名から任命されていた。従って外様大名はなれなかったわけである。
 ちょうど元和九年(一六二三)十月の江戸大殉教の時の老中は九人であり酒井忠利、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、井上正就(まさなり)、永井尚政、内藤忠重、稲葉正勝、阿部正次などであった。
 
 供養奉仕
 慶安四年(一六五一)四月二十日、第三代将軍徳川家光が亡くなった。四八歳であった。そして芝増上寺に葬られたが、その霊屋(れいおく)の供養奉仕として別当寺院(べっとうじいん)が建てられた。その一つが安蓮社(あんれんしゃ)(東京都港区芝公園三丁目一・842D一三)である。そこの樓門を入ると直ぐ右側に土井利勝の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり左側に阿部正次(正保四年十一月十四日死去)の宝篋印塔があった。
 平成二年(一九九〇)九月土井利勝の宝篋印塔だけは古河市の正定寺に移されている。従って正定寺には二基の墓石があるわけである。

 

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平林寺にある増田長盛の墓
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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現在の誓願寺