序文

本書の目的:現代の要請に正確に応える事

ここにFONTI FRANCESCANE (フランシスカン原典資料)と呼んでいる文書資料を一冊に纏め、イタリア語に訳して紹介することは、現代社会が抱える少なからぬ問題に応えるという目的を持っています。これまでの全ての世代は、アシジのフランチェスコの生き方、その業績について思いを巡らし、彼のメッセ-ジについて様々な思いを残して来ました。フランシスカンという大家族の「内から」見ると、自分たちのたしかなアイデンティティーを再確認することになりますが、一方では、なんら既成概念に捉われずに、過去を見直して再確認し、それによって自分の生き方を変えないまでも、それを現代の自分達と照らし合わせようとする人々もいます。
フランチェスコの人生、死、そして奇跡。この律動的で切り離すことのできない三つのことがらをもとに、多くの書き手たちは、彼の生涯、彼の思いを後世に伝えようと、それらのさまざまな組み合わせからなる緻密な文書を執筆してきました。しかし、私達は、そのようなキリスト教世界の「聖人伝」という慣例的モジュールに従う事は、多くの場合明らかに無理があり、錯覚を起こさせてしまうのではないかと懸念しました。彼を発端とする「運動」の迸るばかりの生命力は、系統だった伝記の形成を許さなかったからです。これは決してネガティブな点ではありませんが、このような現象であるがゆえに、フランチェスコたちの生き方、その体験の唯一で根本的な意義に近づくためには、今でも同じ道のりを徐々に、段階を追って、進んで行かなければならないのです。この彼らの実体験に「近づく」ことが、多くの人々にとって――少なくともイタリアでは――今まで困難だったのは、ここに、一層広い意味では余り適切でないFONTI FRANCESCANE(フランシスカン原典資料)という名称のもとに収集した膨大で多様な文書・文献が、残念ながら今までは、終始一貫した編集のもとに、すべての読者に理解し易い言葉で書かれた一冊の本として提供されていなかったことによります。
本書の中の多くの資料はそれぞれ異なった版によって、すでにイタリアの読者にとっては手に入れ易くなってはいましたが、異なった基準や意図のもとに、多くの資料がそれぞれ異なった版によって、ばらばらにされて世に出されていました。また、読みづらい編集の中に入れられたり、重要でないと判断されて放置されたりした為.に、手に入れるのが困難な資料もあったのです。

そのため、ほかの書物には非常に熱心な読者であっても、所謂、フランシスカンの手による文書には二の足を踏まざるを得なかったのです。更に、イタリアには関係ないと思われたり、さまざまな時代や、地域に散らばった断片的で単発的だったりした資料は、イタリア語に翻訳もされていませんでした。
実現不可能な「すべてを刊行」することは最初から断念し、私たちはこれらの文献をイタリアの読者の方が容易に読めるようにするという意図を達成するのに、最も有効かつ重要なものを収録しました。「源泉」となるべきほかの資料、たとえば本書に載っていない公文書、伝記、記録だけでなく、多くの考古学資料、碑文、フランシスカンの最初の世代の人々の体、服、所有物からなる遺物、13世紀~14世紀の印章、図像、建築物、絵画、美術品などを収録することもできたということは自覚しています。本書の構成の仕方、文学作品としてのおもむきが厳密な境界線を定めたのですが、フランシスカンの出発点の体験の独自性を解説するには、これで十分であったと考えています。
本書の企画にあたって、本書の全体像に求められるような年代順の構成は取らず、むしろフランチェスコの人間としての生き様と、原初フランシスカニズムの筋書きを、水平線上の構築物のように浮かび上がらせる様々な現象を追認できるような構成を取りました。こうして本書は4つの部分に分けられました。 1)アシジのフランチェスコの書きもの。 2)彼についての最も古い伝記。フランシスカン発足から1世紀の間の、フランチェスコの行いとその意志をより深く理解することを意図したその他の逸話・物語。 3)フランチェスコと13世紀における原初フランシスカニズムについて、年代記やその他の資料が伝える体系的、或いは単発的な回想録。 4) フランチェスコの志しに忠実であり、その理想を貫く証し人として特に選ばれた、アシジのクララの書きものとその伝記。
イタリアの読者への計らいをもって世にだされる本書の各文書には、先に述べた「唯一で本質的な」フランチェスコ達の実体験の真の意義に近づくために読者たちが歩む道のりの険しさ、難しさを少しでも平坦にし、案内の役目となるよう、それぞれ詳しく広範な序文と簡単な注釈が付けられています。

従って本書は、このような必要性に応え、フランチェスコと兄弟たちの生き方の根源や前提となったことがらを理解するために役立ちたい、という小さからぬ野心をもっています。過去に目を向けることにより――冷たい批判的な一瞥であろうと、篤い信仰心に溢れる眼差しであろうと――読者は、フランチェスコと最初の世代の修道士たちが、フランシスカン運動の全体像を包んでいるあの福音的兄弟愛に、一つの側面、倫理的・社会的役割を与えるべく傾けられた努力を読み取る事が出来るでしょう。このように広大な視野を通して眺めることによって初めて、昔の対立を引き摺っていない、あの価値と活力が目の前に浮かび上がって来るのです。そしてそれは、現代に於いても、視野を広げて過ぎ去った時代の重みを評価させ、伝統の意義を理解させて、今なお、変革を促す力強い刺激を与え続けているのです。

本書の構成としくみ

このような観点において、本書に掲載される文書は、フランシスカンの最初の1世紀における最も主だった証言を収集したものと言えます。先に述べたように、本書の構成やしくみにより、作品を厳密に年代順に掲載することは出来ませんでした。フランチェスコ本人の書きものを最優先したのは、経験的・実証的基準にこだわる物事の論理的順序からではなく、フランシスカニズムという生き方の主役となった人物に語ってもらうという、私どもの強い責任感によるものです。フランチェスコの伝記に関しては、トマソ・ダ・チェラーノによる、体系だった公式の「アシジの聖フランチェスコの第一伝記(Vita prima)」を先頭に、スピリトゥアル派の作品、或いは(小さき花)から選ばれた物語を、同じ流れの中に一つに纏めたやり方には問題があるかもしれません。正式の伝統的な方法によれば、公式の伝記は、フランチェスコの仲間達の往々にして一方的で、時には問題のある証言、特にスピリトゥアル派の資料から区別する事になっています。

しかし実際には、長年にわたって続けられ、今ではその意味を失った「フランシスカン問題」によって妥当とされていたそのような方法論は、ほぼ一世紀の間に前後して出て来た公式伝記と、個人的な証言を比較して読むための助けになるよりは、むしろそれを邪魔していたのです。これらはいずれも当時の歴史的風土の産物であり、それらはその時代にあって、時には対立し相手を傷つけるような資料で、フランシスカンを治める者達の為の宣伝の、或いは、道を誤らせる教訓、またはメッシア思想の考えの道具として、一作者または複数の作者達が導入したものです。
本書が採用した文書の順序は、平等とは言えないまでも、より適切な事実の把握と、各文書を概念的に差別しないで比較することを可能にしていると思います。何故なら、文書の日付やそれらの時系列の問題には、フランシスカンの歴史の連続性の問題以外に、むしろそれ以上に重要な、フランチェスコと彼の原初の理想の姿に関して多種多様な解釈があるからです。このようなことを前提に、最も古い「フランチェスコとフランシスカンに関する読み物Leggende francescane」(Leggende という言葉は、中世ではまだ「伝説」という意味はもたず、単に読本を指していたことを、ここではっきりさせておきたいと思います)を掲載し、フランシスカニズムが数世紀にわたる歴史のあゆみのなかで展開されて行く中で、そのどの時代にも常に保ち続けた、初めの一世紀のころの姿勢、テーマ、考え、行動の独自性、特徴をはっきりさせて行きたいと思います。
一世紀という短い期間とはいえ、彼らの生き方、身に起きたできごとの複雑性と多様性は、本書のなかで順次示される、書き手や年代記作者による単発的または体系だった記録によってもすでに明白です。この場合も、選択は容易ではありませんでした。出来事の直接的または間接的な証人であるかどうかということよりも、この場合に関しては、その証人の内的・外的視点が明確な重みをもっているように私たちには思われました。フランシスカンの年代記作者は、綿密に、体系的に観察し記録しようとしただけでなく、自分もそのなかの登場人物である意識をもって書いています。

外の世界も、当時の出来事や人物たちも、「家」のなかから観測され、内部の出来事に関連づけられています。
宗教に関わる事柄に詳しく、理解力があっても、フランシスカニズムの外に身を置き、「外の世界から」見ようとする人々にとっては、フランシスカンのなかで起こる出来事は平板化され、逸話的に取られたり、宗教的出来事や習慣もそれらの間の関連性が見えないため、単なる「歴史資料」にされたりすることがよくあります。しかし中にはジャコモ・ダ・ヴィトゥリを初め、他にも特に優れた観察者達もいました。そのような立場からの記録によっては、フランシスカニズムがその行動や担った役割によって、社会全体の宗教/市民/政治力の間にどのように浸透して行ったかを、「外から」見ることができます。一方、フランシスカン内の年代記作者達はそこかしこで、創立者自身が直感し、弟子達の為に規則として残した原初の理想の、内容と明確な定義に関する内部での論争の影響を受けていますが、外部の観察者達は、修道会の共同生活と聖職者修道会としての発展と組織化について、その政治・宗教的、経済・社会的重要性を明確にしています。
以上を考慮に入れ本書の編集者達は、錯綜する様々な派閥による伝記の記述に関しても、対立の影響に曝されている人々の証言ブロックには、一つの明確な近づき方が必要である事を確信したのです。この多種多様の関心や文脈が絡み合って複雑化した全体像を前にしては、その錯綜する見解を熟視して、環境や制度をも判断の材料とする批判的視点があってこそ、その真相を見究めることが出来るのです。
今まで述べて来た本書の構成や仕組みには、内的論理性、正当性があるものと考えています。もちろんより完璧な方法を見出す努力は必要かと思いますが、本書は、特に優先される領域、つまりフランチェスコの姿と、フランシスカン男子修道会の、その誕生から最初の一世紀の動きに近づき、それを皮相的にではなく、深く理解する事を可能にしてくれます。この様なことから、同じ様なもう一つの必要性に応える義務があると思われたのです。それは、アシジのクララという人物を同じ時代に登場させる義務なのです。

フランチェスコと彼の小さき兄弟達の業績の評価を、一層幅広い画面の中で、空間と時系列の水平線上で広げる為には、フランシスカンの体験の全体像の補足と言うより、それを完成させる役割を持つ彼女の登場が必要なのです。
フランチェスコの忠実な弟子であった彼女の、学術的に信頼がおける書き物としては、よく知られている彼女の伝記が、あまり問題がないのでそれを採り入れました。しかし、フランチェスコの他の仲間達(パドヴァのアントニオ、アシジのエジディオ、兄弟ジネプロ等の伝記)、特に 償いの在俗修道会の資料は意図的に取り入れていません。 それらを採り入れるには、フランシスカンというフレスコ画のすべての部分が綿密に形成され、原典資料の相関関係が確立されていなければならず、また、そのような選択をした場合、本書の全体的構図が崩れてしまうからです。

生き生きとした展望:「成る」こと、そして「為す」ことの手助け

このような展望にもとづいて本書を出版するにあたり、序文(導入文)と翻訳に関して明確にしておかなければならないことがあることを率直に付け加えておきたいと思います。
フランシスカン原典資料(多くの場合、文書というよりは本格的な文学作品です)という名称で呼ばれる文書を収集した本において、ただ単に情報提供におわる序文とか、教訓的・倫理的な解釈を促す導入文を添えたとすれば、いままで多くの研究によって得られた成果を故意に隠すことにもなり、また、数世紀の間、木箱の中に封印されて来た内部資産――時を経てその価値も変わってきました――を、その価値を理解し守りぬくための時間、手段、能力をもたなかった、あるいはもたない人々の手から剥奪することにもなるでしょう。よりオープンな討論のしやすい、新しいアプローチのための序文(導入文)の作成を目指したのは、熟慮のうえでの選択でした。といっても、そのために本書のあらゆる部分で終始一貫した同等の「客観性」に達することができたというわけではありません。

フランシスカン原典資料を、そのなかで語られていることばに内在する自然な論理性・意義をもった状態に戻すために、過去の宗教的解釈の伝統によって固定化されてしまった文脈から、ことがらや教義を解放することに努力を注ぎました。そのような伝統的な観点から見た場合、特に「霊性」と呼ばれるものなどは、気付かぬうちに修道会の理想的精神を指し、それに限られてしまいます。そのことばの元となった特徴、すなわち発足期の「精神」を保ち、生き、働くという極めて重要な機能は、歴史的自己解釈のための構造になりさがり、歴史的要素と、宣伝の道具、社会的理解の調整手段、祭儀の道具、特に改宗者獲得の宣伝の道具とを混ぜ合わせて、混乱を招きました。
歴史学的研究の成果に照らし合わせてフランシスカン原典資料の一側面をみると、新しい宗教的エネルギーが、他の宗教的エネルギー(伝統的、または新しい)に対して明確な対立性と非合体性を示す一つの修道会に凝固して行く様子が伺われます。その対立性や非合体性は、いうなればフランシスカンの歴史的特徴でした。また、別の側面からは、自己属性認識の局面から自らを解き放つ過程を経て、時と共に、総体的には一般社会環境の中での、個体としては教会世界の中での、自己理解へと徐々に進んで行った段階的過程を見極める事が出来ます。
このような視野のもとでは、各文書の序文において、たとえばフランチェスコの信仰生活のなかでたまたま見られた心の動きとか、フランシスカン内部に限られた出来事の社会的・文化的環境について、言及することは出来ませんでした。序文では、文脈の中に描き切れない問題には、必然的に、一般的な関心しか示さざるを得ませんでした。ひとことで言うなら、序文は歴史分析、さらに、より明確に言えば「歴史」そのものにならなければなりませんでした。

それは、霊性史、思想史、精神史、制度史などと呼ばれる分野も含め、利害、公理、主張によって、いわば典型的に定義された人間の存在についての省察にほかなりません。現代の方法論によれば、この場合、歴史分析をする以外に方法はないでしょう。本書の序文では、さまざまな理由や興味の対象に基づいて、それぞれの要点を強調しようとする傾向が見られますが、それは決して個人的な基準によるものではなく、ある明確な歴史的文脈を根拠に、特定の状況の前提条件を捜し求める研究者としての立場によるものです。この、要点を強調しようとする傾向、またはそれに偏りがちな点については、各序文の筆者がそれぞれ個人的にその全責任を負います。そのため、本書が選択したものの中には、そこかしこに矛盾しているように見える――または実際矛盾している――ところがあるでしょう。ひとりの監修者によって全体の調和を図ることもできたかも知れませんが、それではすべての問題点が乗り越えられ、解決したがごとき錯覚を与え、あらゆる討論の道をふさいでしまうことになるでしょう。
このような「偏見」(躍動的・能動的意味での)を持っていることの自覚は、厳格に自制された責任ある解説であるという事実を揺るがすものではなく、本書が意図する根本的な観点を明瞭にしているのです。この観点とは、学術論争を煽る為だけに、過去の事柄を明白にさせるためのものではありません。むしろそれらの中で今なお過ぎ去っていないものを、今の現実の中に受け容れるよう手助けするものです。また、特定の教えを得るためだけでなく、歴史上のある時代と、その時の或る倫理的取り組みの間の、正確な相互依存性を見出すために何が有効かを示すものでもあります。
このような視点を通してのみ、「歴史記述」として立証されたフランシスカン原典資料から、フランシスカニズムが時を経ても、その倫理性がめんめんと続いて今日にいたっていることを把握したうえで、現代に生きる人々が自分に関わるものとして、そのような生き方を続けてゆくための倫理的意義を汲み取る事ができるのです。

キリスト教・福音が内にもつ活力と、現実にそれを生き、苦しんだ歴史体験との相互関係を把握してこそ、「霊」の力が歴史を創造する原動力になっていることを理解するに至るのです。 そして、ある宗教的熱情が歴史的事実になったことが分かるだけでなく、教えを伝える際に用いられたさまざまな表現方法、イメージ、しぐさなどを発見することにもなるのです。これに関しては、中世の書き手たちは、精緻で卓越したテクニックを駆使しており、そのおかげで、一つの「霊性」の本質の歴史的理解を可能にしているのです。そしてすべての記述は「客観性」をあまり気にする事なく、その時代特有の社会・環境が求める必要性にそって書かれています。
したがって、「フランシスカン原典資料」間の歴史的アイデンティティーの比較系列はできなくとも、本書の序文の執筆者たちはその「偏見性」によって、ありもしない客観性を追い求めることをせず、ことがらの自明性に立ち向かい、客観的事実の再構築をめざすという愚鈍さを――フランシスカンらしく――避ける道を選んだのです。つまり、方向を変え、流れに道をつけ、多くの人々が希求することがらの価値や意義に変化を与え、福音的意義にまで高めるために、行動を優先し続けたのです。フランシスカン原典資料自体も、歴史の流れのなか、フランシスカニズムがはっきりした倫理的アイデンティティーと誰もが認める宗教的熱意を保ち続けながら、ダイナミックに進んでゆくさまを見事にあらわしています。
序文だけでなく、おそらくそれ以上に、翻訳と注釈に関しても、作品間で異論や見解の相違が見られるかもしれません。各々が自主性をもって仕事をすすめた研究者たちで構成されるグループが刊行する本ですので、無理に一致させようとすれば、原作の内容、表現力――それに忠実であることを翻訳者たちは目指しています――が損なわれてしまうでしょう。 各部門の責任者は、訳者たちの選択の適切さ・正当性のみをチェックし、彼らの原文への忠実さを目標とする忍耐強い、熟慮された努力について――その目標のために明白に必要とされる場合を除いては――削除とか、意味の選択権への介入とかいう作業はしていません。

この多様性の尊重は、序で述べられている、本書が目指す「討論の可能性」を少しも損なわずに残すものです。このような新しい解明や解釈をもたらす方法により、未来にむけた研究の道が開かれています。
どのような場合でも、フランシスカンの典型的な視野は大切にされています。それは、人間にとって大切なのは、知識を得るとか見ることではなく、ある時代において達した成果、そして勝ち得た成果の中に、人間がキリスト教・福音的ビジョンに従って、どの様に成り、何を為したかを残すことなのです。言いかえれば、フランシスカン原典資料を読むにあたり、大切なのは過去の事象に、何も成果をもたらさず、知識欲を満足させ慢心させるだけの要素を探し出すことではなく、この成る事と為す事の意志を明確にし、強めるような、正確な出会いの対象を見付ける事なのです。

ミラノにて、1977年6月

編集スタッフ

編集委員

編集長
エツィオ・フランチェスキーニ
ミラノ・カトリック大学
総括
フェリチャーノ・オルジャーティ
ミラノ・フランシスカン図書館
第一編、第二編担当責任者
スタニスラオ・ダ・カンパニョーラ
ペルージア大学
第三編担当責任者
ルイジ・ペッレグリーニ(マーリオ・ダ・ベルガモ)
ペルージア大学
第四篇担当責任者
クララ・アウグスタ・ライナーティ
アシジ・聖クララ会母院
協力

ジョヴァンニ・ボッカーリ
アシジ、サン・ダミアーノ

アリスティデ・カバッシ
ミラノ、神学研究所

アベーレ・ガルフェッティ
グロッタフェッラータ、コレジオ・サン・ボナヴェントゥーラ

サヴェーリオ・コロンバリーニ
ピアチェンツァ、サンタ・マリア・ディ・カンパーニャ、

ヴェルジリオ・ガンボーソ
マウリツィオ・マラグーティ
ボローニャ大学

フランチェスコ・マッテジーニ
ミラノ、カトリック大学

シンプリチャーノ・オルジャーティ
ブレッシャ、ルッツァーゴ・フランシスコ会

カルロ・パオラッツィ
ミラノ、カトリック大学

リーナ・ランカーティ、ルチァーノ・ピンニ
ミラノ、フランシスコ会図書館
「イル・サント」誌 編集者、パドヴァ

テオドジオ・ロンバルディ
ボローニャ、アントニアーノ神学研究所

エルネスト・カローリ
ボローニャ、アントニアーノ、本書の発起人、出版と普及責任者
ウーゴ・ガンベリーニ

校閲