[命]マウリチオ 森本敬三修道士 日時 2024/05/26 終日


[2021] マウリチオ 森本敬三 修道士

兄弟マウリチオ森本敬三修道士は、1935年(昭和10年)6月25日に岐阜県土岐郡瑞浪町山田(現在の瑞浪市山田町)に生まれました。
1955年(昭和30年)12月24日に、名古屋市北区のカトリック城北橋教会(カトリック名古屋教区)にて受洗。1958年(昭和33年)10月1日に長崎市本河内町196番地の聖母の騎士修道院にて本修道会に入会し、1959年(昭和34年)8月16日に大浦天主堂(カトリック長崎教区)にて受堅しました。
同年11月21日に志願着衣をし、志願期を過ごした後、1961年(昭和36年)3月25日に修練着衣を行い、1962年(昭和37年)11月21日に単式(有期)誓願を宣立しました。
その後、1965年(昭和40年)11月21日に盛式(終生)誓願を宣立。

1970年(昭和45年)1月13日から聖母の騎士修道院に派遣され、1973年(昭和48年)2月16日からは東村山修道院へ派遣されました。
1975年(昭和50年)4月1日から東村山修道院所属にて、まりあ幼稚園(1965年4月10日開園)の職員として1980年(昭和55年)3月まで奉仕しました。
1980年3月14日から1985年(昭和60年)2月まで湯江修道院(長崎県北高来郡高来町)所属にて、養護老人ホーム聖フランシスコ園の職員として奉仕。
1985年2月20日から由布修道院(大分県速見郡湯布院町)へ派遣され、同年12月20日からは長崎の聖母の騎士修道院へと任命を受け転任。
1986年(昭和61年)1月1日から聖母の騎士修道院所属にて、聖母の騎士幼稚園において職員として奉仕をしながら、園バスの運転手として多くの子どもたちと交わりました。

1992年(平成4年)4月1日にブラジル連邦共和国へと派遣され、同年8月17日に着任し、29年に亘ってブラジル日系人[正式なブラジル合衆国政府の要請による移民開始は1908年に開始]と交流しました。

2021年[令和3年]5月3日、朝のミサと朝食にも見えなかったことから修室を覗いてみると意識ははっきりしながらも床に倒れているのを発見されました。
修道院の兄弟たちが一丸となって体を洗い、救急車で病院に搬送され、大腿骨骨折と診断されました。翌日プレートを入れる手術がなされ、術後は物理療法を開始しますが呼吸器官の状態が思わしくありませんでしたが、医師の厚意により、兄弟レオナルド松尾繁詞神父と時折携帯電話で話しができるようになっていました。

ブラジル時間の5月25日午後5時15分(日本時間:5月26日午前5時15分)、兄弟マウリチオ森本敬三修道士は、肺の衰弱のため帰天しました。86歳。

現地の兄弟ゼンソン神父と別件の用事でサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス(SP)市に滞在していた総評議員の兄弟ロゼリオ修道士が遺体の確認のためにすぐに病院へかけつけました。

兄弟マウリチオ森本修道士は、宣教師としてサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス(SP)市の聖マキシミリアノ・コルベ教区のコミュニティに所属していました。葬儀ミサと埋葬はサンパウロ州サント・アンドレ(SP)市で行われました。
葬儀ミサのなかで主司式の司教は、兄弟マウリチオ森本修道士について「彼は、日系ブラジルの人びとのなかで共に過ごし、深遠な神の愛とその神聖さを雄弁に証してくれたことを神に感謝します。奉献生活によって、彼が永遠の栄光のなかで神に迎えられますように、わたしは祈ります。[抄訳]」と述べています。