
「すべてを受けとめるあたたかな十字架」における聖フランシスコ 《保護者の方々向け④》
皆さまもご存じのとおり、教会には十字架がかかっていたり、十字架のしるしがあったりします。
十字架は、ローマ帝国においてローマの市民でない人のうち、最も重い罪を犯した人が受ける刑罰でした。どうして、十字架を教会のシンボルのようにしているのでしょう。
イエスさまは、十字架上で亡くなりました。悪いことをしたからではありません。神さまのあたたかなこころをどのような人にも伝えているうちに、権力者の嫉妬や怒りを買ったのです。
イエスさまは、十字架上で亡くなるまで、人の良くない気持ちもすべて受けとめ、神さまのあたたかなこころを伝えようとなさいました。後には、復活なさいます。
そのイエスさまは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せになりました。困難においてもあたたかなこころをほんとうに大切にしてほしい、という願いがあるでしょう。
誰でも、嫌なこと、苦しいことを避けたいはずです。同時に、あたたかなこころをいただきたいはずです。イエスさまは、このようなわたしたちをよくご存じで、すべて受けとめながら、今も神さまのあたたかなこころを伝えようとなさっています。
800年前の聖フランシスコは、23歳の頃、神さまのあたたかなこころを深く感じはじめました。そのようなある日、アッシジの町の近くにある、崩れかかった小さな教会に入りました。そこには、十字架につけられたイエスさまを描いた板絵が掲げられていました。
すると、イエスさまの声が聞こえました。
「フランシスコ、行きなさい。そしてわたしの家を修復しなさい。見ているとおり、すっかり崩れかかっています」
聖フランシスコは、それまでいろんなところで何度も十字架を見ていました。しかし、一度もこのようなことはありませんでした。その声はこころの深い部分で響きました。ですから、聞いたことばのとおり、自分の手で石を運び、その教会を修復しようとしました。
後になると、そのメッセージのほんとうの意味が分かってきます。それは、次のようなことだったでしょう。
「十字架のイエスさまは、今もへりくだって、みんなの痛み、苦しみ、悲しみ、冷たいこころ、弱さも受けとめておられる。イエスさまは共にいてくださるけれど、教会の人々にもこのような弱さがあるので崩れかかっているようなところがある。へりくだってあたたかなこころを分かち合い、支え合うよう、イエスさまは願っておられる」
聖フランシスコは、十字架を通して、イエスさまの苦しみよりも、イエスさまの深いやさしさをたくさん感じたようです。
皆さまは、子育てにおいて、嫌な思いをしたり、苦しかったり、苛立ったり、あたたかなこころを抱けなくなったりすることがあるかもしれません。
誰にでもあることです。ある程度、仕方のないことです。ご自分をあまりにも責める必要はありません。
イエスさまはいつも共にいて、皆さまのすべて受けとめておられます。これまでもずっとそうでした。そして、人との関わり、様々な出来事、聖書のことば、お祈りのときなど、いろいろな形を通して、皆さまの困難を共に担いながら、あたたかなこころを皆さまに伝えようとなさっています。
十字架を見たとき、ありのままの自分をイエスさまにおゆだねしながら、あたたかなこころを少しずつ思い起こしていただけると幸いです。
イエスさまがあたたかなこころを皆さまにたくさん届けてくださいますように。
(聖フランシスコ年記事n.11)

