月刊「聖母の騎士」 3.浦上キリシタンの受難禁教令、四番崩れ、原爆   ホームへ   表紙へ  

本島 等 (元長崎市長)

浦上キリシタンの受難 禁教令、四番崩れ、原爆


 一五四九年(天文十八年)八月十五日、フランシスコ・ザビエル神父が鹿児島に来て、はじめて日本にヨーロッパ文化をもたらし、キリシタンの布教がはじまった。
 多くのキリシタン大名が出現し、キリシタンは豊臣秀吉の信任を得て、大いに隆盛をきわめた。天正遣欧少年使節はヨーロッパに渡り、たいへんな歓迎を受けた。このことは日本史に特筆されるものであった。しかし、一五八七年、晴天のへきれきの如く、豊臣秀吉のキリシタン禁令がくだり、キリシタン大名高山右近はマニラに追放され、日本二十六聖人は長崎で殉教した。
 天下の実権を握った徳川家康は、キリシタン禁令を発布して信仰と布教を禁止した。
 一六〇五年、全国のキリシタンは約四十万人になっていた。しかし、一五四九年から五六年にいたる、いわゆる日本のキリシタン時代は終わり、迫害と殉教の時代に入った。
 キリシタン迫害の時代は、豊臣秀吉のキリシタン禁令にはじまり、信仰と布教が禁止され、徳川時代の長い迫害と拷問の歴史は続く、明治のはじめの浦上四番崩れ、そして天皇制絶対主義に阻まれて、キリシタンの苦難の時代はすすむ。アジア、太平洋戦争は、キリシタンはスパイや非国民といわれ、外国の宗教を信ずる者として迫害を受けた。しかし、まさに日本の敗戦は、キリシタンの解放であり、信仰の自由の真の意味の確立であった。「信仰の自由」は、「言論の自由」「表現の自由」の基礎である。
 徳川家康のキリシタン禁教令発布当時、日本に四十万人ものキリシタンがいたといわれる。宣教師たちは、これらの信者を捨て去るにしのびず、四十八名の神父が潜伏残留し、信者たちの指導にあたっていた。しかし迫害は日増しに残酷になり、キリシタンの血は全国で流されはじめた。二代将軍秀忠も兇暴な迫害者であったが、三代将軍家光は残虐な方法でキリシタンたちを苦しめ、生命を奪いつづけた。
 キリシタンたちが受けた拷問は、はりつけ、斬首、火あぶり、寸断、溺没、水責め、鋸引き、穴づり、雲仙の地獄責めなどいろいろあったが、最も残酷なのは穴づりと鋸引きであった。
 かの有名な天正少年使節の一人、ジュリアン中浦神父は、六十三才で穴につるされ、四日間も苦しんで息をひきとった。
 何の悪いこともせず、おのが奉ずる神がまことの神だと信じたことや、その信仰こそ魂の救いの道として人に勧めただけの理由で、このような拷問を受け、生命を奪われるのであった。しかもただ一言、信仰を捨てるとさえいえば、生命は助けられるのに、神への愛とその信仰の証人たるために喜んで死をえらんだのである。
 しかし、人間の弱さゆえに、その責苦に堪えられないで信仰を捨てた人びとも少なからずあった。
 どれほどの人数が、ただ信仰という理由だけで殺されたのであろうか。新井白石は殉教者の数を二十万人以上と推定した。姉崎正治博士は三千七百九十二人としたが、この人数は新史料が現れるにつれて増加しつつある。
 そして一六四三年には、日本に残留した最後の神父が殉教し、主要なキリシタンたちも殺されつくして、日本には一人のキリシタンもいないかのように思われた。それにもかかわらず、キリシタン検索制度はいよいよ苛烈になっていった。
 懸賞訴人(嘱託銀)の高札がはじめて立てられたのは、一六一八年(元和元年)であった。はじめは伴天連の訴人銀三十枚であったのが、一六二六年(寛永三年)には銀百枚に増額され、一六三六年にいたって同宿や一般信者の訴人にも懸賞銀が約束された。
 一六二六年とも一六二九年ともいわれている絵踏みの開始は、それが信仰の対象物を踏み汚させるという精神的拷問であっただけに、非道なものとしてヨーロッパ人の間に汚名高いものとなった。一八五七年(安政四年)開国の機運のなかで長崎地方の絵踏みが廃止されたのは、絵踏みの非道さを欧米人が嫌悪しているのを知っている長崎の出島館長ドンゲル・クルチウスの献言によったものであった。
 一六三五年(寛永十二年)には往来手形の制がはじまって、キリシタンの逃亡を取り締まった。一六四〇年、井上筑後守が宗門奉行として徹底的なキリシタン検索に乗り出した。
 毎年、宗門人別改めが行われ、人びとは皆、一家全員の宗旨を明らかにして檀那寺の証明を受けねばならず、出生、死亡は必ず檀那寺に届け出て、納棺、埋葬にはその寺の僧が立ちあった。
 また五人の組連座の制によって、向う三軒両隣単位で、キリシタンが組内におりはしないかと互いに監視しあっているのである。
 このような蟻のはい出るすき間もないほど厳重なキリシタン検索制度が二百数十年も励行され、毎年五人組の組頭は、キリシタン邪宗門取り締まりについての五人組帳を読み聞かされ、一歩外に出れば高札場には「切支丹宗門は累年御禁制たり・・・・・・」という高札が目につくのである。
 それにもかかわらずキリシタンはいた。幕末に長崎地方はもちろん、仙台、高槻、久留米、天草その他の場所にキリシタンが潜伏していたことが知られている。


 明治のはじめ、浦上キリシタンの信仰が明るみに出て、大坂の御膳会議で、三千四百人の浦上キリシタンは名古屋以西二十藩に流配され、生かすも殺すも自由、拷問、病気、重労働で五六二人が死んだ。これを浦上四番崩れと呼ぶ。
 また、当時日本は、岩倉具視を団長とする木戸孝充、大久保利通、伊藤博文などが、安政の不平等条約改正の瀬踏みに出発したが、彼らは、アメリカやヨーロッパで、キリシタン弾圧に対して激しい批難を浴びた。そのため日本国内のキリシタン禁制高札は撤去された。
 明治初年の浦上四番崩れの後、一八七一年十二月十七日(明治四年十一月六日)、伊万里県(後、佐賀県)管下の高島、蔭の尾島(現在の香焼)、神の島、大山、出津の信者で佐賀市外の評定所牢に投獄されたキリシタンもいた。
 この他、多くの事件が起こり、多くのキリシタンの血が流された。四番崩れのあと、キリシタン禁制の法令がなくなり、二百五十年の間、信者が願いつづけた『大声でオラショ(祈り)を唱えられる日』がきた。しかし、浦上の人々の苦難は、まだ、終わらなかった。六年の間、住む人のなかった村では、畑は草原となった。浦上に帰った人々のうち、七百七十六人の家はなくなっていた。その他の家は屋根も壁も崩れて、形ばかりのあばら家になっていた。家の中の道具や畳や建具などは残っていなかった。浦上は荒涼たる廃墟になっていた。食べる物もなかった。西海岸の村までカンコロ(切り干し芋)を買いに行った。昨年もの(去年干したもの)よりも安い三年ものカンコロを買った。虫が、いっぱいわいていた。
 鍋も釜もなかった。農具もなかった。手で草をとり、茶わんのかけらで穴を掘って、種をまいた。
 明治七年、伊王島に赤痢が発生、浦上でも二百十人がおかされた。激しい台風がつづいた。
 湾外の島々に天然痘が発生した。神父と浦上の女たちは救護活動に行った。孤児をつれてきて孤児院を作った。長崎県下のその他の地方でも、キリシタン弾圧は行われた。
 一八八〇年(明治十三年)、浦上庄屋屋敷を買って、キリシタンたちは教会建設にとりかかった。一八九五年(明治二十八年)から本聖堂の建設にかかり、一九一四年(大正三年)、着工以来二十年目に落成した。貧しい生活の中から金を出しあい、労力奉仕をつづけた。
 建物の正面に二つの塔をつくって、すべてが完成したのは一九二五年(大正十四年)であった。間口十八メートル、奥行き六十二メートル、高さ二十五メートル、双塔の高さ二十四メートル、東洋一の教会堂であった。
 浦上は明治、大正時代から、昭和にはいって、信仰と祈りの村として生きつづけた。ミレーの名作「晩鐘」そのままの風景が、毎日、普通のこととして見られた。しかし、『浦上四番崩れ』から帰郷した後も、キリシタンに対する差別、蔑視は続いた。
 被差別部落が長崎市の寺町から西坂町に移され、更に浦上に移されたのは、浦上キリシタン監視のためだった。部落の人たち四百数十人が被爆で亡くなった。同じ運命にさらされたキリシタンと部落の人たち――それが長崎原爆の特徴でもあった。
 昭和の戦争の時代になって、またもやキリシタンに対する迫害と弾圧はくり返された。
 昭和十二年七月、日本が中国大陸に出兵して、国内が急にさわがしくなってきた。ちょうどその頃、シスター江角ヤスは苦心して家野町に純心高等女学校を新築したばかりであった。長崎県警察部の特高課の刑事が訪ねてきて、質問した。
「この学校は、外国人との関係はどうなのか」
 江角校長は、純心聖母会が日本人だけの修道会で、外国から資金はもらっていないと説明すると刑事は帰って行った。そのうち、特高の警察官ばかりでなく、陸軍の憲兵までが、長靴で荒々しくはいってきた。憲兵は長い剣を両膝の間に突き立てて、ものものしく構えて、取り調べでもするようにいった。
「お前たちの神様のキリストと、天皇陛下とどっちが上か下か」
 江角校長は、おちついていた。
「キリストと天皇陛下とは、上も下もございません」
 江角校長は、軍人とはなんと乱暴な考え方をするものだろうと思いながら、反論した。このころの憲兵に反論することは、江戸時代のキリシタンが、長崎奉行に抗議するのと同じような、勇気のいることであった。
「日本人らしく、天皇陛下をおがんで、キリストなどをおがむのは、やめたらどうだ」
「この非常時に、キリストを信仰しておったら、天皇陛下にそむくことだぞ」
 憲兵の粗暴な頭脳では、江角校長に歯が立たなかった。江角校長は綿密な思考をもっていた。彼女は当時日本女子教育最高の名門、東京女子高等師範学校を卒業して、東北帝国大学で数学を専攻した。当時、日本中の帝国大学で女子を入学させたのは東北帝国大学だけであった。
 江角校長が黒の修道服姿で、電車の中でラテン語の祈祷書で祈っていると、近くの男が大声をあげた。「何だ、人前で英語なんか読みやがって。非国民め」。
 外を歩くと、いつも、ののしる声が聞こえるようになった。修道服が目につくらしかった。
「日本人のくせに、毛唐のまねをしやがって、つん燃やしてやるぞ」
 とうとう、修道女たちは、修道服をぬいでモンペやズボンの姿になった。聖堂で声を合わせて祈ることも、ひかえるようになった。憲兵はしばしばやってきた。「日本人なら日本人らしく、日本の神様をおがめ。教員室に神棚を作って、伊勢神宮のお札をまつって、毎朝必ずおがめ。お前たちはキリストを毎朝おがむそうだが、伊勢神宮も、毎朝おがめ」。憲兵のいってきたことは、国の方針にもなっていたので、純心高女でも神棚を教員室に設けた。そして、その中に伊勢神宮のお札というものを納めた。江角校長以下、修道女や職員は、毎朝、その前にならんで、柏手を打って、最敬礼をした。
 このような迫害や圧迫は、戦争が長引いてくると激しくなった。佐世保では憲兵隊長がカトリック教会に乗り込んできて、建物の撤去を要求した。それに呼応して右翼団体が市中を演説してまわった。
 そのうち、教会の中に暴漢が侵入して器物を破壊してあばれた。信者の家には、脅迫状が送られてきた。誰も助ける者はいなかった。学校に行く子供にまで、「伝道士の子はスパイの子だ」と、石を投げつけた。
 信者総代のひとりは、憲兵に尾行されるようになり、さらには憲兵隊に軟禁された。
 このようなことは、日本全国でおこり、憲兵は至るところで陰険で暴虐な行動をした。
 真夜中に、シスター江角は荒々しい叫び声でおこされた。「この非国民め」「売国奴」と、ののしる声が聞こえた。大変なけんまくであった。シスター江角は驚いて、戸口に身をひそめるようにして、恐る恐る、わけを尋ねた。外に来ていたのは、町の警防団の団員たちであった。
「明かりがもれているぞ。早く、消せ」
「灯火管制の演習をなんだと思っているのか」
 演習のあることは知っていた。建物のなかの電灯は、全部消すか、覆いをつけておいた。ところがよく聞いてみると、礼拝堂のなかに、あかりがついている、というのだ。シスター江角はあきれてしまった。あかりといっても、聖体の安置を示す常夜灯の小さなランプである。そんな光であれば、空中の飛行機から見えるはずはなかった。しかし、うかつなことは言えなかった。警防団はいきり立っていた。
「ヤソはスパイかも知れんぞ」
 聞くにたえないことを言う者もいた。このような警察も、憲兵も、警防団の人たちも、ふつうの善良な市民なのだ。
 昭和十六年(一九四一年)、太平洋戦争がはじまると、世間一般が戦争気分でわきかえった。軍部は国民の戦意をあおるために反米、反英の宣伝をし、英語を使うことをやめさせた。
 長崎医科大学は爆心地から七百メートル東方にあった。金毘羅山(こんぴらさん)の中腹にあったため、原爆の熱線と衝撃波の直撃を受けた。永井隆はラジウム室の机に向かい、古いレントゲン写真を整理していた。原爆の爆発の時のことは「長崎の鐘」に詳しく書かれている。
 戦後、平和な信仰の自由の時代の到来かと思われたが、また迫害の時代ともいえることがおきた。今度は、作家や評論家が永井隆が「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝」というのはけしからんというのだ。豊臣秀吉も、徳川の将軍たちも、長崎奉行たちも、みんな自分の考えが一番正しいと思っていたのだ。作家や評論家も自分が一番正しい考えだと思っているのかも知れない。
 長崎医大では、非常事態に備えて、臨床各科を一単位とする医療救護隊が編成されていた。永井隆を部長とする物理的医療科は第十一隊であった。永井隆は軍隊に召集され戦場にいたこともあった。広島第五師団の野戦衛生隊長で陸軍中尉であり、自らも銃弾で負傷した。
 彼は直接近距離被爆者であり、重症を負いながら被爆者の救護活動を続けた。家も財産も妻も原爆で失った。彼は、キリシタンになって長くなかった。浦上キリシタンの新鮮な信仰に燃ゆる指導者であった。だから原爆でなくなったキリシタンの弔辞を読まねばならなかった。他に彼にかわる者はいなかった。
 原爆が落ちた時、何百年の先祖の迫害や拷問の歴史は浦上キリシタンにとって先祖の思い出ではあったが誇りではなかった。浦上キリシタンは四番崩れ以来、極貧の中に生きて、スパイや非国民とののしられ、一生懸命戦争のため働いて、そして原爆被爆。神社に参らなかったから、外国の宗教を信じたから、原爆は天罰だといわれ、親も、兄弟も、子供も被爆死、完全に心身共に打ちのめされた。
 一人の兵隊が戦塵にまみれ、九死に一生をえて帰りついた懐かしい故郷は一望の廃墟。自宅のあった場所に水たまりができていて、幼い妹の赤い鼻緒の下駄がうかんでいた。そのときつくづく、神も仏もあるものかと思って、それっきり教会へ行くのをやめたというのである。キリシタンは、天国へ行くために、この世で苦しみを背負うのだと教えられたけれども、一生懸命、祈りと労働にあけくれたのに、この残酷さは本当に神様のご意志なのだろうか。
 その時、永井隆は叫んだ。
 ――浦上は神様に選ばれた民だった。みんなに代わってわれわれが犠牲になったのだ。われわれが、みんなの悲しみや苦しみを引き受けたのだ。不正義の戦争に勝利があるだろうか。賠償をはらって謝罪をしなければ。世界平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたのだ。神のみ摂理、神の恵み、神に感謝。
 集まった二千人のキリシタンを激励し、希望を与え、神への愛と信頼をとりもどすために、ほかにどんなことばがあっただろうか。信仰の自由を神様が許可されたのだ。
 合同葬に集まった浦上キリシタン二千人は激しく泣いた。(敬称略) 

 

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本島 等(元長崎市長)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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永井隆博士