教皇フランシスコは8月30日、列聖省長官セメラーロ枢機卿と会い、その席で3人の神のしもべの英雄的徳を認める教令を承認。 この教令によって英雄的徳が認定され、新たに尊者の敬称を付された神のしもべの3名は次のとおりです。
 

◎プラチド・コルテーゼ神父(司祭・コンベンツアル聖フランシスコ修道会、クロアチア1907 – イタリア1944)
◎マリア・クリスティーナ・チェッラ・モチェリン(信徒・家庭における母親、イタリア1969 – 1995)
◎エンリカ・ベルトラメ・クアットロッキ(信徒、イタリア1914 – 2012)
 

1)尊者プラチド・コルテーゼ(ニコロ・マッテオ・コルテーゼ)は、1907年3月7日に、クロアチア[当時はオーストリア・ハンガリー帝国に属す]のツレス島で生まれました。
1924年10月10日に単式(有期)誓願を宣立。1928年10月4日、アッシジの聖フランシスコ大聖堂にて盛式(終生)誓願を宣立。
1930年7月6日に司祭に叙階され、イタリア・パドヴァの聖アントニオ大聖堂で奉仕。1933年12月から1937年1月まで、ミラノのヴィアーレコルシカの修道院にて、教区の奉仕職に務めました。1937年の初め頃にパドヴァに戻り、1943年まで月刊誌 “ Messaggero di Sant’Antonio ” の編集長を務めました。
第二次世界大戦中、当時の駐イタリア教皇大使からの委託で、パドヴァ近郊(Padova-Chiesanuova)の強制収容所のクロアチアやスロベニア出身拘留者の世話を行ったほか、1943年9月8日のイタリア・連合軍間の休戦協定締結後は、連合軍兵捕虜やユダヤ人をはじめナチスに迫害されている人びとを逃がすために尽力しました。
しかし、こうしたことがナチス・ドイツから政治的活動と見なされ、1944年10月8日(日)、午後1時30分頃二人のナチス・ドイツの親衛隊が修道院を訪れ、トリエステのオベルダン広場にあるゲシュタポの掩蔽壕に連行され、拷問の末の1944年11月中旬ころに亡くなり、リジエラディサンサバの火葬場で焼かれました。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の生涯とその殉教に起こった出来事のように、尊者プラチド・コルテーゼ神父の生涯と死の最後の数週間にも、多くの貴重な証言が残されています。
 

2)尊者マリア・クリスティーナ・チェッラ・モチェリンは、ミラノ近郊に生まれ、高校時代にドン・ボスコ(ジョヴァンニ・メルキオッレ・ボスコ・サレジオ会創立者)の扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の共同体で、召命識別の歩みを始めました。
しかし16歳で、後に夫となるカルロと出会い、自分は家庭生活に召されていることを確信。
二年後、左足にサルコーマ[骨や軟部組織(脂肪、筋肉、神経など)といった結合組織にできる悪性腫瘍の総称]が発生しましたが、治療を続けながら高校を卒業。
1991年に結婚したカルロとの間に、二児を授かりました。第三子を妊娠したばかりの時に、病気が再発し、胎児に影響を与えない治療を選択。
その頃、誕生を待つ第三子に宛て、「リカルド、あなたはわたしたちへの贈り物です …一人の子のために耐える価値のない苦しみなどこの世にはありません」と手紙を記しています。1994年、第三子リカルドを出産。その後、標準的な治療を再開しましたが、1995年に26歳で帰天した。
 

3)尊者エンリカ・ベルトラメ・クアットロッキは、福者ルイジ・ベルトラメ・クアットロッキと福者マリア・コルシーニ夫妻の第四子として生まれ、キリスト教的な愛と信仰の息づく家庭のなかに成長しました。
司祭になった二人の兄と修道女になった姉と同様の道を歩もうとしましたが、エンリカの召命は高齢の両親のもとに留まりながら、自らの信仰を歩むことでした。
聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会、赤十字、カトリック・アクションなどの活動を通し、貧しい人びとや病者に奉仕しました。
大学で美術史を専攻、卒業後に高校で教鞭をとりました。1976年、文化財・環境省の管理責任職に就きます。病気や様ざまな困難のなかでも聖体と祈りを中心とした生活を続け、晩年は危機にある夫婦たちのために信仰のメッセージを伝えていました。
 

2021年8月30日  18:16 バチカン放送局