アシジの聖フランチェスコの祭日における総長挨拶 総本部H.P.より
2021年10月1日(金)
432

Prot.N.0760/2021
2021年10月4日 ローマ
「また、彼らのためだけでなく、
彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、
すべての人を一つにしてください。
彼らもわたしたちの内に一つにしてください。
そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、
信じるようになります。
(ヨハネ17:20-21)

世に対して兄弟的であること
兄弟的文化を生むことのできる力

アシジの聖フランチェスコの祭日における総長挨拶
親愛なる兄弟の皆さま

熾天使的師父聖フランチェスコスの祝日によせて、こころからお慶び申し上げます。皆さまに兄弟として挨拶を申し上げ、皆さま一人ひとりに主の祝福が豊かにあるようお祈り申し上げます。今年は、わたしがこころに感じている促しをお伝えし、素朴に分かち合いたいと思います。

導入
数日後に、兄弟的交わりと社会全体の友好についての回勅『兄弟の皆さん』に教皇フランシスコが署名をなさってから、一周年を迎えます。この文書は、「開かれた」世界について考え、そのような世界を生み、「閉ざされた世界の影」に向き合うための手助けとして出されました。回勅は、共通善、共生、平和に向けた変化をもたらすような希望を抱き、世に「ひとことを届ける」ことを強く求めています。愛、倫理的な意味での善、自由、平等、兄弟的交わり、対話、出会い、社会的慈善活動、政策に反映される愛、諸宗教そのもの、こうしたことは、教皇によれば新しい文化、つまり兄弟的文化を生む助けとなる道となります。
わたしたちは、フランシカン家族として、2026年に聖フランチェスコの過越800周年という非常に重要なお祝いを控えながら、既に『勅書のない会則』800周年を祝い、思いめぐらすことによって照らしをいただいています。続いて、差し迫っている2022年には、もう一つの重要な記念、つまり『ある管区長への手紙』から800年を祝うことになります。この手紙は、『勅書のない会則』と『勅書のある会則』との間(1222年頃)に記されました。勿論2023年は、『勅書のある会則』800周年という大きな記念の年です。
既にお示ししたように、こうしたお祝いによって、わたしたちは照らしを受け、フランシスカンの歴史と霊性における重要な出来事から生じる恵みを新たにする機会をいただいています。更にこれは、わたしたちの霊性に関するテーマについて考察を深め、こうしてわたしたちの「召命と選び」、わたしたちの家族のカリスマに基づいてアイデンティティーを新たにする機会でもあります。

カリスマに基づくアイデンティティーの「真の場」
わたしはいつも、フランシスカンの創立初期の生き方について熟考することを選択してきました。この生き方を、聖霊によって生じたものとして熟考するだけでなく(勿論この生き方は聖霊の働きによるものですが)、中世の変化、広がり、新しさという社会文化の活気によって信徒の間に生じたもののひとつとしても熟考してきました。つまり、聖霊に息吹かれた生き方でありながら、特定の社会的状況(封建制度の崩壊)に促された生き方でもあり、同時に社会そのものに対する新しいメッセージとして生じた生き方でもあります。
この生き方は聖フランチェスコにおいて生じ、聖フランチェスコはこれについて教会の識別をいただきました。この生き方は、真の意味で「兄弟的交わり(兄弟会)」です。「初期においては、修道会でも会」[1]でもありませんでした。実際、聖フランチェスコは人生を終えるにあたり、「縦の聖職位階的な様式というより円形の共同体的な様式の視点で、封建的な現実よりも共同体の現実にもっと近い様式を再確認しようとしています。とりわけ望
んでいたのは、『兄弟的交わり(兄弟会)』ということばによく表現されている、初期の様式とそれを支える洞察力を忘れないことです」[2]。
「聖フランチェスコによって生じた『兄弟的交わり(兄弟会)』は、近現代の様ざまな会の創立と同じような形で修道者の団体として生み出されたとは言えない」という考えを、わたしは支持しています。創立初期の「兄弟的交わり(兄弟会)」は、生活し、信じ、働くための様式です。「被造物、権力者たち、素朴な人びとたち、教会の世界に身を置く」ための様式です。この様式は、主イエスの福音以外の何ものでもありません。ですから、「福音を表現する新鮮な空気から生じた神のメッセージ」として「兄弟的交わり(兄弟会)」を捉えることを、わたしは好んでいます。それは、この世に向けられたメッセージでもあります。
勿論、この「兄弟的交わり(兄弟会)」は、早い時期に「オルド[と呼ばれる古い伝統を持つ修道会]」、あるいはもっと適切に言うなら、「レリジオ[と呼ばれる会]となりました」既に存在していた修道会の会則とは異なる新しい会則によって生じた会です)。ともかく、奉献生活という教会の様ざまな団体の間に加えられるという「新しい現実」が生じ、そのようななか、アシジの聖フランチェスコの望みは生き生きとしていました。創立初期の記憶を決して失ってはなりません!永続的にカリスマをあらためていただき、たいせつにする必要があります。
実際、本修道会のカリスマは小さき者としての兄弟的交わり(兄弟会)を基礎として構成されています。このカリスマの寛大さに疑いを抱く人は誰もいません。しかし、歴史において-現在も-非常に多くの条件に従って、会を狭い枠に閉じ込め、良くない意味で解釈しようとしています。[具体的には、次のようなものがあげられます。]隠棲修道会の様式や律修参事会の様式。聖職者に特徴的な聖職位制度の概念。物質中心主義、理性中心主義、重商主義。終末論的解釈、暗い厳格主義、異端的運動。世俗的権力、政治的関心。更に、こんにちでは、「小教区ばかりが生活の中心となっている状態」、または、単純に奉仕職を義務として果たすことに集中して生活が萎縮された状態、更には、修道者の立場から一種の自己顕示欲にとらわれた状態に至るまで、司牧的視点だけでなされる様ざまな解釈さえもあります。ここにあげたリストをもっと完全なものにすることはできるでしょう。しかしわたしが思いめぐらしながら行いたいのは(いつも行っているように、科学的特徴ではなく、直観的な特徴を持つ考察です)、皆さんが自分の存在、生活または活動すべてにおいて、カリスマに基づく清らかさを絶えずより一層求めながら、日常生活を「清める」ことをやめないように、と招くことだけです。わたしは、「あらゆる兄弟、あらゆる共同体が生活、姿勢、活動、方法論、責任ある施設において、本修道会のカリスマの『真の場』を確認し、自分たちのものとするよう」、お招きします。カリスマに基づいた原理こそ、わたしたちの「感情面での中心」、倫理面での「原動力」なのではないでしょうか?

世界に対する兄弟としての努め
会憲法では、コンベンツアルに特徴的な様式の側面が非常にはっきりと示されています。
とりわけ、わたしたちの実際の生活の状態における兄弟、小さき者として生きる様式が強調されています(すなわち、「共同体において素朴に暮らす生き方」として、または、様ざまな奉仕職をより良く遂行できる形として捉えられる、兄弟的交わりです)。しかし、この様式は構成要素です。言い換えれば、神学的要素だけでなく、本質的要素、様ざまなものを貫く要素であり、つまり、三位一体における力学を映す「鏡」です。
わたしたちの生活と宣教についての計画は、イエス・キリストの福音によって立てられています。この計画は、兄弟的交わり、小さき者としての生き方、償い、回心、聖なる教会への忠実さ、福音的勧告による完全な奉献において、展開されます。

福音と兄弟的交わりがわたしたちの生活様式と宣教です。本修道会の6か年計画(第二部「兄弟的交わりとなるために」)において、次のように述べられている通りです。「コンベンツアル小さき兄弟たちの一つの理想的な兄弟共同体を夢見ましょう-『求めましょう』と言うのがもっと具体的です-。その兄弟共同体とは、成長を助けるすべての手段を用いながら、兄弟共同体を生きることからはじめて、可能な限り優れた形で、様ざまな活動地域において、福音的様式を示すものです。…『宣教を生きる共同体』は、『わたしたちの最も美しい側面』です。
こうしたことから推定されることは、「コンベンツアルの様式による宣教は、福音宣教の様ざまな務めを単純にまとめたものではなく、世に対する兄弟としての努めに相当する」ということです。その務めとは、福音を告げ知らせながら、「兄弟的交わり」を提供し、「兄弟的交わりにおいて自分をささげる」務めです。福音を「あらゆる」方法で告げ知らせるのではなく、宣教を生きる共同体として、ただし兄弟、小さき者という形で、つまり、福音に基づく形で福音を告げ知らせます。ここに述べているのは、兄弟的交わりにおいて生きることだけではなく、同時に何かを世に「提供すること」、ただし-共同体で絶えず奉仕職や勤めを果たすなかで自分自身をささげながら-「兄弟的交わり」を提供することです。
皆さん一人ひとりに、次のような問いかけをさせていただきます。わたしたちの活動は、小さき者として真の兄弟的交わりを映す鏡、この交わりを伝えるメッセージとなっていますか。この交わりを「具体的に生きて」いますか。

文化を生むことのできる力
兄弟的交わり、神への完全な愛、宣教、小さき者としての生き方、平和は、フランシスカンの特徴の一部であり、フランシスカンであるかどうかを人びとが知る「基準」となっています。実に、人びとは間違っていません。想像上の「フランシスカン」は、人びとの文化のなかに強く入り込んでいます。それはおそらく、兄弟たちが創立初期から、世のただなかに向かって宣教するようにと任命を受けていたことから生じています。しかし聖フランチェスコは、メッセージまたは説教だけによって宣教するように兄弟たちを派遣したわけではありませんでした。ある様式、非常に意味深い方法、つまり福音を証しすることによって宣教するように派遣しました。
実際、この様式によって、兄弟たちは皆、世に出なければなりませんでした。この様式は、二次的要素ではありません。素朴な小さき者としての形で、平和的な形で、自らの身を他者のもとにとどめる形で、丁寧で清らかな形で、祝福を届ける形で人びとと関わらなければなりませんでした。方式はその方式を具体的に生きるものであり、具体的に生きているものは福音を生きる方法であり、主イエスの様式でした。
フランシスカニストたちと共に、次のように明言することができます。当時(フランシスカンの歴史の初期)において、またこんにちにおいて、「世において生活することには、移り変わる現実に兄弟たちがふさわしい新たな対応を届けるために絶えず創造的に努力することを含んでいます」…「このように世に出向くなかでたいせつにすべきことは、果たすべき役割の質ではなく、福音に生きる自分たちの様式を示す質です[3]。
要するに福音に生きる質は、自分自身について語るという目的はなく、他者について語り、社会そして勿論教会においても福音を生きる文化を生むという目的があります。福音を生きる質には、前もって生活と召命に確信を抱くことが含まれています。しかし同時に、(福音において、神であるイエスに示されている人性を映す鏡として)信者たち、兄弟たち、また深い意味では[すべての]人びとが生きることができるものを世に告げ知らせるために、「外に」出向くという志向性も含まれています。この志向性には、福音を生きる文化を生むという目的があります。
最後に次のような表現の問いかけをさせていただきます。わたしたちの周り、わたしたちの修道院、活動、使徒職での奉仕の周りに、兄弟として(福音を生きる)文化を生み出す力を感じていますか。

結びの挨拶
「世に対して兄弟的であること」と「兄弟的文化を生むことのできる力」という二つの招き・メッセージを親愛なる兄弟の皆さんにお伝えし、コンベンツアルの家族とすばらしいフランシスカン家族に属している慶びが満ち渡るよう願いながら、今年のアシジの聖フランチェスコの祭日においてご挨拶申し上げます。わたしたちの家族は、生活と宣教の質において自分たちを絶えず新たにするよう、呼ばれています。
皆さまにあらゆる善いことがありますよう、お祈り申し上げます。

「…あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」
(ヨハネ15:27)

総長
兄弟カルロス A. トロヴァレッリ

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[1] Cf. C. VAIANI, La fraternitas nella Regola, in A. CZORTEK, (a cura di), Un testo identitario. Metodo e temi di lettura della Regola di Francesco d’Assisi (Convivium Assisiense – Itinera Franciscana 5), Cittadella Editrice, Assisi 2013, pp. 103-140.
[2] VAIANI, La fraternitas, p. 107.
[3] F. URIBE, Preghiera, dominio di sé e itineranza, in P. MARANESI – F. ACCROCCA, (a cura di), La Regola di Frate Francesco. Eredità e sfida (Franciscalia, 1), Editrici Francescane, Padova 2012, p. 330.

訳:兄弟ルカ 谷崎新一郎

 


 
Saluto del Ministro generale nella solennità di San Francesco d’Assisi

Prot. N. 0760/2021
Roma, 04 Ottobre 2021

venerdì, 1 Ottobre 2021
432

Non prego solo per questi, ma anche per quelli che per la loro parola crederanno in me; perché tutti siano una sola cosa.
Come tu, Padre, sei in me e io in te, siano anch’essi in noi una cosa sola, perché il mondo creda che tu mi hai mandato.
Gv 17,20-21

Fraterni verso il mondo
capaci di generare cultura fraterna
Saluto del Ministro generale nella solennità di San Francesco d’Assisi Carissimi confratelli, Buona e serena festa del serafico padre San Francesco! Vi saluto fraternamente, augurandovi tutta la benedizione del Signore a ognuno di voi. Quest’anno vi presento alcune provocazioni che mi stanno a cuore e che condivido in semplicità.
Introduzione
Fra pochi giorni si compie il primo anniversario della firma della lettera Enciclica di Papa Francesco “Fratelli tutti” sulla fraternità e l’amicizia sociale. Un testo proposto per aiutare a pensare e a generare un mondo “aperto”, e cosi, affrontare le “ombre di un mondo chiuso”. L’Enciclica pretende di ‘offrire una parola’ al mondo, nella speranza di generare un cambiamento verso il bene comune, la convivenza, la pace. L’amore, il bene morale, la libertà, la uguaglianza, la fraternità, il dialogo, l’incontro, la carità sociale, l’amore politico e le stesse religioni sono alcune delle vie che, secondo il Pontefice, possono aiutare a generare una nuova cultura: la cultura fraterna.
Come Famiglia Francescana, inoltre, avvicinandoci al grandissimo giubileo del 2026, VIII centenario della Pasqua di San Francesco, ci siamo lasciati illuminare già dalle celebrazioni e riflessioni per gli ottocento anni della Regola non bollata. Prossimamente sarà il turno di un altro importante giubileo, quello della Lettera a un Ministro nel 2022, composta tra la Regola non bollata e quella bollata (1222 aprox.) e certamente, il grande giubileo della Regola bollata nel 2023.
Come ho già suggerito sopra, queste celebrazioni sono sempre un’opportunità per illuminarci e per rinfrescare la grazia dei principali eventi della storia e della spiritualità francescana. Inoltre, occasione per approfondire la riflessione delle tematiche connesse alla nostra spiritualità e così rinnovare la nostra “vocazione ed elezione” e l’identità carismatica della famiglia.
Il “posto reale” dell’identità carismatica Ho sempre fatto la scelta di considerare il movimento francescano delle origini non solo come un movimento suscitato dallo Spirito Santo (certamente lo è!), ma anche come uno dei movimenti laicali medievali, nati da una effervescenza socioculturale di cambiamento, apertura, novità. Un movimento, dunque, ispirato, ma anche “spinto” da una situazione storica particolare (lo sgretolarsi del sistema feudale) e simultaneamente indirizzato come messaggio di novità a quella stessa società.
Il movimento che in San Francesco ha il suo inizio, e che lui stesso metterà sotto il discernimento ecclesiale, è una vera fraternitas; non “inizialmente un Ordo né una Religio”[1]. Infatti, alla fine della sua vita il Poverello “vuole ribadire uno stile più vicino alle realtà comunali che a quelle feudali, ad una prospettiva di tipo circolare e comunitaria piuttosto che verticale e gerarchica. Soprattutto egli vuole che non si perda la memoria di quegli inizi e dell’intuizione che li sosteneva, che trovava ben espressa nella parola fraternitas”[2].
Sostengo che la “fraternitas” originata da San Francesco non può essere considerata come la creazione di una istituzione religiosa simile alla fondazione delle moderne congregazioni religiose.
La fraternitas delle origini nasce come uno stile di vivere, di credere, di lavorare, di ‘porsi nei confronti del mondo, della creazione, dei potenti, dei semplici, della Chiesa’. Questo stile non è altro che il Vangelo del Signore Gesù. Mi piace pensare dunque alla fraternitas, come un messa