10月4日 熾天使的師父聖フランチェスコの祭日

10月3日の晩は、師父聖フランチェスコがこの世から天の国へと移ったこと、死をテーマにした典礼が行われます。
そして翌4日は、天国での誕生を記念した典礼で、フランシスカン家族では祭日として祝います。

[フランチェスコは]仲間の兄弟たちに、自分と一緒にキリストを賛美するように願い、その帰天まで残されていたわずかな日々を、賛美のうちに過ごしました。
[師父]自身は、その力の限りを尽くして、次の詩編を唱え始めました。「わたしは声を限りに主に叫び、わたしは声を限りに主に願います(詩編142参照)」云々と。また、かつて[師父]自身が、神の愛をたたえるように励ますために作り上げた言葉(兄弟なる太陽への賛歌・すべての被造物の賛歌)を用いて、神を賛美するように、すべての被造物を招いたのでした。そして、すべてのものにとって恐ろしく厭(いと)わしい死さえも賛美へと鼓舞し、喜び迎え、自分の客に加わるように招いて、「ようこそ、おいでくださいました、わたしの姉妹なる死よ」と言いました。
医者に対しては「兄弟なる医者よ、勇気をもって、死が間近になったことを知らせてください。死はわたしにとって命の戸口となるのですから」。兄弟たちには「最後の時が近づいたら、一昨日あなたたちが見た通りに、わたしが死んだ後も、人が急がずに一マイルの道のりを歩く間、そのままそこに安置しておいてください。」[と言いました。]

時が来ました(ヨハネ4:21参照)。[師父]のうちにキリストのすべての神秘が成就されて、至福のうちに神のみもとに飛び立っていったのでした。
【チェラノのトマス『魂の憧れの記録(聖フランチェスコの第二伝記)』第二巻第163章参照】

聖フランチェスコの生涯
フランチェスコ(Giovanni di Pietro di Bernardone)は、1181年または1182年に、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)とピッカルディア(Pica de Bourlemont ピカ夫人、ジョバンナ)の長男として現在のイタリア中部ウンブリアのアシジに生まれました。 フランチェスコの伝記記者チェラノのトマス(Tommaso da Celano)は、次のように彼の生涯(聖フランシスコの生涯[第一伝記])を書き始めます。

「スポレートの谷、アシジにフランチェスコという名の男が住んでいました。」

聖ボナベントゥラ司教教会博士(Bonaventura da Bagnoregio)も『聖フランシスコの大伝記』のなかで「アシジの街にフランチェスコという名の男がいました。」と書いています。聖人の生涯は出来事やテーマを通して伝えられるため、歴史的に正確な記述はありません。
生まれてすぐジョバンニという名前で洗礼を受けましたが、父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネは、商用で何度もフランスへ通い「フランス産の織物(Panni franceschi)」を仕入れてきていたため息子をフランチェスコと呼びました。
フランチェスコは、素直で気立て良く育ちます。フランチェスコの生涯も「罪の奴隷(闇)」から突然「完全なまばゆい光」へと移るのではなく、皆と同じような夢や気ままさ、遊びや仕事を通して、それ自体が徐々に強いキリスト教的体験の核心を育てていくのでした。

1)陽気な若者
フランチェスコはとても陽気な若者でしたが、表面的ではありませんでした。とても寛大であると同時に、繊細な面もあり無責任ではありませんでした。
彼は、吟遊詩人(トルバドゥール)たちが歌う円卓の騎士の英雄的な物語や高貴な愛の歌に陶酔し、皆から注目されることを好んでいましたが、それは自己陶酔というよりも、自らの天賦の才に気づいていたのでした。
彼は何か偉大なことに運命づけられていることを感じており、「わたしは偉大な王の先触れである。」と公言することをはばかりませんでした。

アシジにはフランチェスコと通りで会う毎に、彼の足下に着ていたマントを敷いて、いつの日か偉大な日がやって来ると叫ぶ者さえいました。それは貧しい男がフランチェスコから気前よく施しを受けたことへの無邪気な感謝のしるしか、それとも預言のメッセージだったのでしょうか?

2)主人に仕えるか それともしもべに仕えるか。
陽気さと明朗さを発揮していた若者は、沈黙と孤独を選び始め、町の中心から離れ、アシジの人里離れた場所をさまよいます。彼は宝物を探しますが、まだそれは隠されていました。
その後、再び騎士への憧れを燃えたたせ、もっと偉大なことを求めてアプーリアへの遠征に参加します。新しい鎧に身を包んだ姿は父親を大いに喜ばせました。出立式で友人たち一人ひとりと言葉を交わし出かけていきました。出発してすぐ、スポレートにさしかかったところで、武具がいっぱい詰まった宮殿の夢を見ます。
夢のなかで「あなたにとって偉大なこととは、主人に仕えることかそれともしもべに仕えることか?」という声が聞こえます。そして「勿論主人に仕えるほうが優れています」と答える彼に、アシジに帰ることを促しました。これはフランチェスコにとって傷を負わないための降伏であり、コレストラーダの戦い以上の敗北でもありました。

3)フランチェスコの回心
数年が経ち、若者は立派な大人となりましたが、心のなかには見えない傷が深く残っていました。周囲の人びとからの罵詈雑言、噂話、友人たちの冷やかしから逃れ孤独のなかにいました。
ある日、廃墟となった小さな教会の、埃をかぶった十字架から声がしました。「フランチェスコ。あなたの見る通り、すっかり壊れているわたしの家(教会)を建て直しに行きなさい。」こうしてフランチェスコは、か細い手でこの教会の修復にかかります。
建設に石工職人はいりません。彼の教会は魂でつくられているからです。貧しい人びとやハンセン病患者たちはフランチェスコのお気に入りの仲間となりました。
教会の修復費用にと、父親の店から上質の織物を持ち出したり、父親の店のお金を持ち出しては、彼らに施しをしていました。父親のピエトロ・ディ・ベルナルドーネは、これまで息子の可笑しな行動に目をつぶっていましたが、我慢の限界に達し、怒り狂いました。
息子が皆の前で、自分を取り戻し、自らの面目を保つためには強権を用いる必要がありました。父親は息子をアシジの教区を管轄するグイド司教の教会法廷に訴えたのでした。
売り払った織物と馬の代金を返すよう求める父親の望みにフランチェスコは応え、しかも身に着けていた衣服までも脱ぎ、父親の足元に返し、新しい生き方を始めることとなりました。「今までわたしは地上であなたを父と呼んできました。けれども今は、自由な心で、『天におられるわたしたちの父よ』と言うことができます。わたしのすべての宝も、希望も、そのかたのうちにあるからです。」

4)仲間たち
その後、フランチェスコはひとり沈黙と祈りの時を過ごしました。ミサ聖祭のなかで聞いた聖福音のことばをフランチェスコは直ちに実行に移し、杖を捨て、靴を脱ぎ、一枚の粗末な福に縄帯を締めました。
彼にとっって「新しい生活」が始まり、次第に仲間たちがフランチェスコのもとに集まるようになりました。
仲間たちは、クインタヴァッレのベルナルド( frate Bernardo di Quintavalle )、 ピエトロ・カッターニ(frate Pietro Cattani)、エジディオ(frate Egidio di Assisi)、アシジのシルヴェストロ(frate Silvestro di Assisi)、そしてアンジェロ・タンクレディ(frate Angelo Tancredi da Rieti )、カッペラのジョバンニ(frate Giovanni della Chapella,,Giovanni della Verna, Giovanni da Fermo)、フィリッポ・ロンゴ(frate Filippo Longo di Atri)、サバティーノ(frate Sabbatino)、モリコ(frate Morico di Assisi)、サン・コンスタンツォのジョバンニ(frate Giovanni da S.Costanzo)、バルバロ(frate Barbaro)などの名があげられています。

5)会則の口頭での承認[小さき兄弟会(Ordo Fratrum Minorum)の創立]
フランチェスコと最初の兄弟たちは、短い「生活の規範」をしたため、インノチェンツィオ三世教皇(Papa Innocenzo III 在位1161-1216年)のもとへ赴いた時、教皇はある夢を見ました。
それは傾きかけたラテラノ教会を若者が支える夢でした。それで教皇はフランチェスコに「兄弟たちよ、主と共に行きなさい。主があなたがたの霊に示してくださったように、すべての人に回心を説く」ように指示し、また「全能の主が、人数と恵みにおいてあなたがたをまし増やしてくださったなら、その時、喜んでわたしの所に来なさい。そうするなら、わたしは更に多くのものをあなたがたに与え、またより大きな信頼をもって、あなたがたに更に多くのものを任せるつもりです」と述べ、口頭で「原始会則」を裁可し、この若者たちの集りを承認しました。
十二人の若者たちは、アシジの郊外にあるリヴォトルトに移り住みました。
1212年、この共同体は大きく成長し、アシジの街から少し離れたポルチウンクラに移りました。
フランチェスコのあとにクララ(Chiara d’Assisi)も続き、修道服を受け、サン・ダミアノの貧しい修道院で生活を始めました。こうして1212年、クララ会(Ordo Sanctae Clarae)が発足しました。

6)宣教・イスラム教徒の対話
フランチェスコは、全世界に福音を宣べ伝えたいという思いに駆られ、非キリスト教国への宣教旅行を何度か試みます。1212年、アドリア海に面したある港からシリア行きの船に乗りましたが、船は遭難しダルマチア(現在のクロアチア)の海岸に漂着しました。
1214年、モロッコへの宣教の途中、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼地に立ち寄り、病気に罹ります。そして、ついに1219年、シリアとエジプトに赴きました。
エジプト・ダミエッタ(ディムヤート)では、フランチェスコの人となりとその生き方に心を強く動かされたスルタンのアル=マリク・アル=カーミル(Al-Malik al-Kāmil)から説教の許可を得て、記念として角笛を贈られ、カトリックの宣教の道を開きました。エジプトを後にした一行はシリアに向かい、聖地エルサレムを訪れています。フランチェスコはアシジに戻ると体の不調や、彼の不在中に起きた兄弟たちの対立に悩まされます。 1220年フランチェスコは、小さき兄弟会の総長職をピエトロ・カッターニに譲ることにしました。

アシジの司教館の広場で、衣服を脱いで父に返したことは、フランチェスコに神の子どもであることとキリストに形づくられていることを自覚させました。
神である父の業を行うものは、「主イエス・キリストの浄配、兄弟、母です。忠実な魂が、わたしたちの主イエス・キリストに聖霊によって結ばれる時、わたしたちは浄配となります。天におられるわたしたちの父のみ旨を行う時、わたしたちは兄弟となります。神の愛と清く誠実な良心によってわたしたちの心と体に主を宿し、他の人びとへの模範として輝くべき聖なる業によって主を生む時、母となります。」(『すべてのキリスト者への手紙』)

7)イエスのように
「イエスのようになりなさい」これが、会則に示されたフランチェスコの思いです。「これは、兄弟フランチェスコが教皇によって認められ、許可されるよう願った、イエス・キリストの福音の生活である。」(勅書のない会則)

彼の生涯を通して求め続けたキリストの象(かたど)り/模倣は、聖痕の印として彼の体に刻まれました。フランチェスコの死後、兄弟エリア・ボンバローネ(frate Elia Buonbarone, Elia da Cortona、第三代総長)は「皆さんに、大いなる喜びと驚くべき奇跡をお知らせます。それは神の子主キリストを除いては未だかつて聞いたことがありません。彼の死の少し前、わたしたちの父(フランチェスコ)に十字架のキリストが現れ、体に五つの傷を刻みました。それはまさしくキリストの聖痕のようでした。」と書いています。
また兄弟レオーネ(frate Leone)によれば「埋葬のために遺体を洗っていた時、十字架から降ろされたキリストのように見えました。」と証言しています。

教会の祈り 読書課 第二朗読 『すべてのキリスト者への手紙』
御父のいとも尊く、いとも聖にして栄えあるみことばが天から来られることを、いと高き御父は、聖なる大天使ガブリエルを通して、聖にして栄えある処女(おとめ)マリアに告げられました。みことばは処女マリアの胎から、わたしたち人間の弱い肉体を真に受け入れられました。みことばはすべてにまさって豊かであったのに(Ⅱコリント8:9参照)、この世にあって、いとも聖なる御母とともに、貧しさを選ばれました。そして、受難を目前にして、弟子たちとともに過ぎ越の祭りを執り行いました。次いで、御父に祈って言われました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください(マタイ26:39)。」

しかし、御子はご自分の意志を御父の意志にゆだねられました。実に、御父がわたしたちに与えてくださり、わたしたちのためにお生まれになった祝された栄えある御子が、ご自分の血を流し十字架の祭壇の上でご自身を犠牲として、供えものとしてささげることが、御父の意志でした。万物はみことばによって成ったのですが(ヨハネ1:3参照)、みことばである御子は、ご自分のためではなく、わたしたちの罪にために、ご自分をささげられたのです。こうして御子は、わたしたちがその足跡に続くようにと、模範を残されたのです(Ⅰペトロ2:21参照)。御父はわたしたちが皆、御子を通して救われ、澄んだ心と清い体をもって、御子を迎え入れる事を望んでおられます。
なんと幸せな祝された人でしょう。主を愛する人、「心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22:37、39)」と福音のなかで主ご自身が言っておられることを実行する人は。ですから、澄んだ心、澄んだ精神をもって神を愛し、神を礼拝しましょう。神ご自身がすべてにまさってそれを求め、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもつて父を礼拝する(ヨハネ4:23)」と言っておられるからです。実に、神を礼拝する人は皆、真理の霊をもって神を礼拝しなければなりません。日夜、「天におられるわたしたちの父よ(マタイ6:9)」と唱えて、神に賛美と祈りをささげましょう。わたしたちが、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない(ルカ18:1)」のですから。
更に、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにしましょう(マタイ3:8)。そして、隣人を自分自身のように愛しましょう。愛と謙遜[けんそん]を抱き、施しましょう。施しは魂を罪のけがれから洗い清めてくれるからです(トビト12:9参照)。実際、人はこの世に残したものをすべて失ってしまいます。しかし、愛の報いとこの世で行った施しを携えて行き、それらによって褒賞[ほうしょう]とふさわしい報酬を神から受けるでしょう。

肉の知恵や肉の賢明さをもっている人となってはなりません。むしろ、単純、謙遜、清浄でなければなりません。決して、他の人びとの上に立とうとあくせくしてはなりません。むしろ、神のために僕[しもべ]となり、被造物であるすべての人間に従う者でなければなりません(Ⅰペトロ2:13参照)。このように行い、終わりまで耐え忍ぶすべての男女の上に主の霊が留まり(イザヤ11:2参照)、そのなかに住まいを見つけ、そこに住まわれるでしょう。こうして、その人びとは天の御父の子となるでしょう(マタイ5:45参照)。彼らは御父が望んでおられる業を行っているのです。そして、彼らは、わたしたちの主イエス・キリストの配偶者であり、兄弟であり、母でもあるのです(マタイ12:50参照)。

ミサ聖祭【続唱】
(この続唱は自由。唱える場合には、全体あるいは略体として17節以下でもよい)
1、聖性の新たなしるし ほめたたえよ
感嘆すべく恵みにあふれるしるしは
フランシスコのうちに現れた
2、新しい修道者の群れに 新たな規則が与えられ
いと高き王の掟は生き返り
フランシスコにより伝えられた
3、新しい修道会は始められ 世も伝えず人も知らない
新たな生活の定めに 福音の生活はよみがえる
4、キリストの掟にかたどり 新たにされた生活の法
許可された規則の様式 それはきわめて使徒的
5、粗服に荒い縄帯 まとうものに心用いず
わずかなパンを日毎の糧に 履き物を退けた
6、地上のものすべて捨て去り ひたすら貧しさを
貧しいフランシスコは 財産を軽んじた
7、涙する地を求め 悩む心で声を上げ
世で失った日々 貴い時を惜しみ嘆く
8、世を避けた岩穴の 地に伏して嘆き祈る
いたむ心はなごみ 人屋に隠れ住む
9、岩陰に身をひそめ 神に奪われた心
高く清い心は世を忘れ 天のものを慕う
10、厳しい苦行に身をこらし 影のごとくに変わり果て
みことばを糧に 地上のものを厭う
11、その時天のいと高きより 人の形で王は下り
この現れに師父は おそれおののく
12、天の王はキリストのしるしをもたらし 悲しむ心に言葉なく
主の受難を思う師父に 聖痕をしるした
13、手と足の傷 つらぬかれた脇腹
聖い身に与えられたしるしに 血潮は流れ出る
14、ひそかなことばが聞かれ 隠された未来は明らかに
神の霊を告げ、その力を聖人は悟る
15、その身に表れた不思議な釘 外は黒く内は黄ばみ
傷の痛みにさいなまれ 激しい苦悶にうち震える
16、手足に開かれた傷 その不思議は人によらず
自然の力にも 鎚(つち)の与えるものでもない
17、師父よ 身に受けた十字架の神秘 このしるしは世に勝ち
逆らう肉に打ち勝ち 輝かしい勝利をもたらした
18、天の栄光のうちで 報いを楽しむことができるよう
フランシスコ 私たちの守り 危険の保護者よ
19、やさしい父よ、聖なる師父 神の民の助け手よ
兄弟たちの群れと共に 報いを受けることができるように
20、教えられた徳の生活 み国の報いに与るよう
小さき兄弟の群れが 永遠の喜びにいたるように アーメン